探偵小説が若かった頃

真田啓介


 古い雑誌のことを書いてみたい。その名は、「探偵趣味」。

 中島河太郎編 『日本推理小説辞典』 (東京堂出版) によれば、「探偵趣味」 と題した雑誌は過去に4種類発行されているが、ここで取り上げようとするのはその最も古いもので、大正14年に江戸川乱歩、春日野緑らが中心となって結成した 「探偵趣味の会」 の機関誌である。戦前の探偵雑誌としては 「新青年」、「ぷろふいる」 に次いで長命を保ち、大正14年9月から昭和3年9月まで、合計34冊発行されている。筆者の手元にはそのうちの32冊があり、ほぼその全体像を把握できるので、通覧しての印象等を記してみたいと思う。

 傍らに積み上げた雑誌の山から、まず創刊号を手に取ってみる。菊判34ページの小冊子である。もっとも、終刊までこの体裁が続いたわけではなく、第4号から春陽堂が印刷・発売を引き受けることになって (第3号までの発行元は大阪のサンデー・ニュース社) 70数ページになり、後には100ページ近くに増えている。

 創刊号の体裁は、同人雑誌時代の 「文芸春秋」 を模したものということだが、表紙は誌名、目次等が活字で組んであるだけ。シンプルでありながら一種の格調があって、いま見てもとても新鮮である。右横書の誌名の上に、赤い文字で 「江戸川乱歩編集当番」 (原文旧字。以下の引用においても同じ) とある。

 編集には初めのうち同人が交代であたり、第11号までは次の顔ぶれで編集当番制が続いた。――(1号) 江戸川乱歩、(2号) 春日野緑、(3号) 小酒井不木、(4号) 西田政治、(5号) 甲賀三郎、(6号) 村島帰之、(7号) 延原謙、(8号) 本田緒生、(9号) 巨勢洵一郎、(10号) 牧逸馬、(11号) 横溝正史。

 探偵趣味の会の結成や 「探偵趣味」 創刊の事情は、江戸川乱歩の 『探偵小説四十年』 に詳しいが、編集当番に関する記述には誤りがあって、上記のうち本田緒生と横溝正史の名がなく、第9号までが交代編集制であったとしている。また、『幻影城』 附録の 「探偵小説雑誌目録」 中 「探偵趣味」 の項においては、第11号まで交代で編集したとしているが、延原謙と本田緒生の順序が逆になっている (筆者未入手の2冊が第8号と第9号なので、この点は前後の号における記載等からの推定だったが、『「探偵趣味」 傑作選』 (光文社文庫) 所収の総目次により、上記のとおりであることが確認できた)。

 この交代編集制には色々不便が感じられてきたので、第12号 (大正15年10月号) からは小酒井・甲賀・乱歩3人の共同編集というたてまえで、編集の実務には、当時早大仏文科に在学中の水谷準があたった。小酒井不木は遠隔地 (名古屋) の住人だし、乱歩はほどなく作家業に嫌気がさして放浪の旅に出るという有様で、3人の共同編集とはいっても実際に関与し得たのは甲賀三郎だけだったが、その甲賀とて本業の方が忙しかったろうから、実態としては水谷準が編集の全実権を握っていたらしい。乱歩は 「「探偵趣味」 は満三年の生命であったが、探偵小説の発展に貢献するところが少なくなかった。後の 「新青年」 名編集長、水谷準君の稽古台となっただけでも、大いに意味があった」 と記しているが、後に名伯楽とうたわれた水谷準の編集手腕はなかなかのものだったようだ。

 話を戻して創刊号の内容を見ると、随筆が16篇に創作が2篇 (水谷準、山下利三郎)、他に 「探偵問答」 と題したアンケート記事 (回答のうち3人分は随筆扱い)、「探偵作家の著書と創作」 (10人の作家の著作リスト)、「探偵クロスワーヅパズル」 という構成である。創作を含めていずれの記事も、3枚ないし5枚程度の短いものばかりである。

 随筆の筆者は、乱歩をはじめ小酒井不木、西田政治、平林初之輔、甲賀三郎、横溝正史、森下雨村、等々という顔ぶれで、当時のオールスターキャストといってよかろう。乱歩のは 「雑感」 と題して 「探偵的人生」、「探偵物の挿絵」、「最近感心した作品」 という3つの小文を集めたもので、最後の文章では小酒井、横溝、水谷、城昌幸の作品を取り上げて、「僕は、現役の創作家として、前記四氏に最も敬意を表する」と述べている。その他面白そうなページを拾い読みしてみると――

 「たゞ論理の追及にのみ重点をおいたり事件の展開や心理の変化にネセシチイを欠くとき、はじめて広義の探偵小説が 「社会的無意義」 となるとは言へませう。そこには併し、材料ではなくて天分の問題が横はつてゐます。」
                    (平林初之輔「ブリユンチエールの言葉について」)

 「私が探偵小説を書きながら時々不安に思ふ事は自分に犯罪の素質があるのぢやないかと云ふ事である。……更に進んで、探偵小説を読んで面白く思ふ人もやつぱりその仲間だと思ふ。聖人、君子の犯罪なんて分子の少しもない人でも探偵小説は面白いであらうか。」                                     (甲賀三郎「夢」)

 「一体私は、現在の探偵小説があまりに気分だの、色彩だのといふものを没却してゐるのに、第一の不満を感じる。プロツトの変化とトリツクの奇抜、それだけでは私は不承知である。翻訳物は仕方がないとして、創作にはいま少し小説全体の気分、色彩といふものを尊重して欲しい。」                           (横溝正史「幽霊屋敷」)

 このほかにも、本田緒生が 「合しても合しても離れるもの、アルミニユウムの接合。切つても切れないものは、文明と退屈と探偵小説」 なんぞと萩原朔太郎ばりのアフォリズムを書いていたり、蜂石生と名乗る筆者の文章中には 「乱歩の 「一人二役」 を読んで、ようあんな変挺な話を考へ出したものだと感心した。一作毎に頭の毛が薄くなるほど奇抜なことを考へる男だ」 などという一節があったりする。後者は 『探偵小説四十年』 にも引用されていたと記憶するが、この時分、乱歩の頭髪の薄さは折にふれて揶揄の対象になっていたと見えて、乱歩は第7号 (大正15年4月号) に 「薄毛の弁」 なる戯文を寄せて弁明につとめている。

 「探偵問答」 は、会員その他関係者に @探偵小説は芸術ではないか、A探偵小説は将来どんな風に変って行くであろうか、又変ることを望まれるか、……等4つの質問を発して、それに対して得た20通余りの回答を並べたものである。同じ頃乱歩は別の雑誌に 「探偵小説は大衆文芸か」 と題した一文を寄せているが、探偵小説の芸術性如何ということをかなり真剣に考えていたようで、それがこんなアンケートの設問にも表れたのだろう。回答者の多くは 「芸術です」 と答えて乱歩を安心させており、松本泰などは 「愚問です」 と答えている。仮に現在同じ問いをミステリ作家や評論家に発したらどんな答が返ってくるだろうか。松本泰とは違った意味で 「愚問です」 と言われそうな気がするが (あるいは、笑い飛ばされるか、単に黙殺される方が多いだろうか)、それは成熟の証しであるのかどうか。

 この調子で号を追って書いていくとキリがないので、以下はだいぶ端折ることにするが、初期の数冊を眺めたところでは、雑誌の性格が一通りには定まらない様子が見え、必ずしも探偵小説一色に染まってはいなかったようである。というのも、探偵趣味の会の構成員には探偵小説の作家、愛好家の他に、春日野緑をはじめ大阪毎日新聞の記者や、弁護士、警察関係者等の実務家も混じっており、後者のメンバーは 「探偵趣味は探偵小説趣味にあらず」 との態度を見せたからである。春日野緑編集当番の第2号は犯罪学関係の記事が多くを占め、村島帰之 (大毎記者) 編集の第6号も 「女性犯罪号」 と銘打って現実の犯罪事件への関心を示している。それは会の運営面にも現れ、『探偵小説四十年』 によれば、横溝正史などは乱歩にこうした傾向への不満をもらしていたようである。しかし、「探偵趣味」 は編集発行の本拠が大阪から東京に移って大毎記者等の影響力が及ばなくなったためか、号を重ねるうちに探偵小説の色彩が濃くなってきて、水谷準が編集を担当する頃には純然たる探偵小説雑誌になりおおせていた。すなわち、探偵小説の創作と翻訳、プラス探偵小説関係の随筆評論という布陣であり、このスタイルは基本的には終刊まで変わらなかった。

 初期の掲載作品は3枚とか5枚とかのへんぺんたる小品ばかりだったが、やがて20枚から30枚程度のものも載るようになり、昭和2年からは長篇の連載 (大下宇陀児 『市街自動車』、エドガア・ウオレス 『すべてを知れる』) も始まっている。本誌の特色は、それ以前の探偵雑誌が外国作品の翻訳を主としていたのに対して、初めて創作と評論を中心に編集したことにあるというが、創作は、特に初期のものは枚数が少ないせいもあって、取るに足らぬものが多い。それでも、地味井平造、渡辺温、瀬下耽といった人々の埋れた作品を読めるのはうれしいことである。「あやかしの鼓」 で 「新青年」 にデビューしたばかりの夢野久作も、「ゐなか、の、じけん」 などを書いている。しかし、むしろ今読んで面白いのは随筆や雑文の類であろう。中でも乱歩や正史の全集・単行本未収録の随筆を見つけたりすると、思わぬ拾い物をした気分になる。

 たとえば、乱歩の 「私のやり方」 (昭和3年6月号)。乱歩は会の発起人の1人だった故もあってか、創刊号の編集をつとめたほか、初期には毎号のように寄稿するなど積極的に関与していたが、昭和2年初めに前記放浪の旅に出るやそれも途絶えてしまい、その後久しぶりに書いたのが本篇である。これは 「探偵読本」 という連載記事の 〈第五課〉 という位置づけで、前号まで4人の作家 (水谷、大下、小酒井、甲賀) が交代で創作のコツなどを開陳した後を受けて、乱歩が 「いつも探偵小説を考へ出す時の私の、自己流のやり方」 を紹介したものである。冒頭近くに 「もう一年以上も何も書かないし、何か筋を考へようともしなかつたので、大方忘れてゐたが、最近又書いて見る気が起つて、今丁度筋を考へつゝある所なので、久しぶりで昔の苦労を思出した様な訳だ」 という一文が見えるが、ここで 「今丁度筋を考へつゝある所」 といわれているのは、本篇の執筆時期から判断して 『陰獣』 のことであろうと思われる。以下、大正13年11月の日記帳を引用しながら 「心理試験」 の創作過程を説明しているのだが、このあたりのことはさらに詳しく書かれたものもある (「楽屋噺」 など) ので、特に目新しいこともない。

 むしろ興味をひかれるのは後半の創作の苦しみを語った部分で、次に引用するような文章には心を打たれるものがある。

 「小説を書かうとすれば、それが家族と私との関係を異常にする。飯も一所に食はない。顔を合はしても口を利かない。従つて家族共はおどおどする。又始まつたといふ顔をする。人の好い母親が悲しげな顔をする。それを意識しつゝ一間にとぢ籠つて、昼間も雨戸を締め電燈をともして、蒲団の中に寝そべつてゐる。薄暗い書斎の中には文学が蠢いてゐる。書斎の外の広い明るい世界には、正常なる人生が、ほがらかに営まれてゐる。私は世間に顔出しの出来ない恥しい思ひをして、そこに縮まつてゐなければならない。不健全、狂気、罪悪などにとり囲まれながら。(明るい小説なんて、私には分るだけのものだ。私には他人だ。)」

 文中の 「文学が蠢いてゐる」 という言葉に注目したい。乱歩にとって、作品はエンタテインメントなどという呑気で気の利いたものではなかったのだ。水谷準は、編集後記で 「僕は原稿を頂いた時に早速読んで見て、非常な興奮に襲はれてどうにも仕様がなかつた。何かしら涙ぐましかつたのだ」 と書いているが、その気持はよく分かる気がする。そして、改めて乱歩という人の秘密に迫りたい思いにとらわれる。

 終り近くには 「小説でも書かうといふ場合には、人嫌ひな孤独の陰獣と相形を変ずるのだ」 といった言葉も見え、冒頭の一文とも相まって、この文章が 『陰獣』 の構想に苦心していた時期の産物であることをうかがわせる。本篇は 『探偵小説四十年』 付録の目録を補訂した 「江戸川乱歩作品と著書年度別目録」 (江戸川乱歩推理文庫第65巻所収) にも、島崎博編 「江戸川乱歩書誌」 (別冊幻影城第5号所収) にも漏れているが、その分量 (400字詰約10枚) の点だけからしても、見過ごしにはできない一篇といえる (その後、河出文庫版 〈江戸川乱歩コレクション〉 のY巻として出た 『謎と魔法の物語』 に収録された)。

 横溝正史は、長篇 『女怪』 (未完。戦後の金田一ものとはもちろん別作品) の連載を含めて創作、随筆ともども相当数の寄稿をしているが、それらをたどっていくと大家の修業時代の足跡がうかがわれて興味深いものがある。随筆から1つ紹介すると、大正15年正月号掲載の 「私の死ぬる日」 には、自分は24歳だがひどい神経衰弱で遅くとも今年中に死ぬに違いないと思っていた、ところが占いの女に28歳の年の9月20日に死ぬと言われたから、まだ4年もあるので安心した、なんていうことが書いてある。これが一種の冗談であることは、死期を占師に予言された男の悲喜劇を扱った映画の話をマクラにしていることからしても明らかだが、70歳を過ぎてもカクシャクとして大作を発表していた作家が、若い頃こんなことを書いていたのかと思うとおかしくなる。

 このほか、西田政治が亡くなった弟 (正史の親友だった) の思い出話をしていたり、伝奇小説作家とばかり思っていた国枝史郎が初期の常連寄稿家の1人で、思想のない探偵小説はダメだなんて注文をつけていたり、黒岩涙香の特集号 (大正15年11月号) には宇野浩二の談話が載っていたり、昭和2年2月号の片隅には 「横溝正史氏――此の度 「新青年」 の全責任を引受けられた。 渡辺温氏―― 「新青年」 へ御入社。 江戸川乱歩氏――目下 「東朝」 の一寸法師に全力を御傾注」 なんていう消息記事があったりで (註、「東朝」 とあるのは東京朝日新聞のことだが、大阪朝日新聞にも同時連載された)、あちこち拾い読みしていると興味はつきない。

 古雑誌をめくる楽しみのひとつは当時の出版広告を見ることだが、毎号、乱歩の 『心理試験』 や 『屋根裏の散歩者』、小酒井不木の 『恋愛曲線』 などがそれぞれ1ページを費やして広告されている。こういうページを見るときには、筆者は涎をたらさぬよう何度もツバを飲み込まねばならないのである。探偵趣味の会編 『創作探偵小説選集』 の広告は、「見よ日本探偵小説の時代は来れり、色とりどり百花燎爛の盛観、本邦唯一の創作探偵小説年鑑也」 と謳い文句も高らかである。時代も、人も、探偵小説も若かったのだ。

 本稿のタイトルは、昭和3年1月号掲載の座談会記事 (乱歩、甲賀、大下、横溝ら8名出席) 中の森下雨村の 「日本に於ては探偵小説がまだ若い――」 という発言から借用したものである。雨村はそこで 「長篇で本当に成功したのは小酒井君の 「疑問の黒枠」 だけだと思ふ。長篇でいゝのが出ないのは――」 という言葉に続けて、「未成熟」 の意味で 「若い」 と述べているのだが、若いというのは決して否定的な意味ばかりを担った言葉ではない。未熟ではあっても、そこには溌剌とした清新の風が吹き渡っていた筈である。上の座談会においても、時には喧嘩ごしの議論になったりしていて、血気盛んな文学青年のやりとりを聞いているような気分になる。こんなところからも草創期の探偵作家たちの若々しい情熱が感じられて、筆者は、はからずも

 「我々は創作探偵小説というものを、世間に認めさせたいという熱情に燃えていたものである。小酒井さんばかりでなく、森下さんも、甲賀三郎君も、私も、大げさにいえば一種開拓者のような気持で動いていたのであった」

という乱歩の文章の一節 (『探偵小説四十年』) を思い出したのである。

  

(付記)
 本稿は、「SRマンスリー」 第250号 (1990年5月) に掲載された同題の文章に一部手を加えたものです。5年前、光文社文庫の 〈幻の探偵雑誌〉 シリーズの1冊として 『「探偵趣味」 傑作選』 が出たので、この雑誌の全体像の把握は容易になっていますが、細部の紹介等で本稿にもいくばくかの情報価値はあろうと思い、今回掲載していただくことにしました。なお、技術上の制約から、ごくわずかですが引用文の表記が原文と異なっている部分があります。 
                                    (2005.7.11掲載)

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