T・S・エリオットのホームズ論

植村昌夫訳


 1929年、T・S・エリオットは自ら編集する季刊誌 『クライティーリオン』 に、前年にマレー社から出版された 『シャーロック・ホームズ短編全集』 の書評を書いた。このとき詩人は41歳、すでに 『荒地』 (1922) を発表してその名声を確立していた。アーサー・コナン・ドイルは翌1930年に71歳で亡くなった。(訳者)

 シャーロック・ホームズは、いつも我々にあの十九世紀ロンドンの快適な生活を思い出させる。十九世紀を知らない者が読んだとしても、同じように 「懐かしい」 という気持がするだろうと、私は信ずる。もっとも、あの古い挿絵のないこの本で初めてホームズを読めばどんな感じがするものか、私には想像もつかないのであるが。マレー社が今度は挿絵入りの一巻本を出してくれることを期待したい。私は挿絵画家の名前を忘れてしまったが、二輪馬車や、奇妙な山高帽や、ホームズの鹿撃帽や、朝食後ホームズがフロックコート姿でいるところや、サー・ジョージ・バーンウェルが 「壁から棍棒を取る」 ところなどは、今でもよく覚えている。シャーロック・ホームズの物語では、十九世紀末は常にロマンティックでノスタルジーを誘い、決して俗悪ではない。

 批評の対象をほかのものと比べることができれば、批評家には大いに便利である。しかし、シャーロック・ホームズと比べられるものとなると、私には心当りがない。彼はカフ巡査部長やデュパンの後裔ではない。ルコックとの関係はごく皮相のものである。反対に、彼は後継者には事欠かない。これはモリアーティ教授も同じである。ただあの巨漢の天才、マイクロフト・ホームズだけは、私の知る限り跡継ぎがいないようである。アルセーヌ・ルパンもラッフルズも、ロビン・フッドを原型としている。しかしホームズは家系については常に口を噤んできた。というより、彼には家系などないのである。さらにシャーロック・ホームズの最大の謎は、彼の話をしているとまるで探偵本人が実在するような気がしてくることである。ふつうの読者にとっては、カフ巡査部長よりもやはりウィルキー・コリンズの方がリアルで実在感が強いだろう。同じように、ポーはデュパンよりもリアルである。ところがサー・アーサー・コナン・ドイルとなると、新聞の日曜版に登場する著名な心霊主義者であり何年も前に読んで忘れてしまった痛快な小説の作者なのだが、この人がホームズにいったい何の関係があるのかという気がしてくるのである。ほかの作家とその主人公の場合と比べてみても、かえって訳が分らなくなる。我々はディケンズ抜きでサム・ウェラーを思い浮べることができる。フォールスタッフはシェイクスピアから完全に独立している。しかしホームズの実在性 【リアリティ】 は独自の実在性 【リアリティ】 なのである。彼は決して完全無比ではない。たとえばホームズの用いる変装は、とうてい信じ難いものだ。フリーマン氏のような現代の探偵小説作家ならば、登場人物に変装させるときは具体的にどこをどうするのかを丁寧に説明する (たとえば 『アンジェリーナ・フラッドの謎』 を思い起こされたい)。モリアーティの目を逃れるにはロンドンにいた方がよいに決っているのに、わざわざスイスまで山登りに出かけるのも、考えてみればおかしな話だ。最近の二冊のホームズには知的な衰えが見られ、昔の自分を繰返している。『最後の挨拶』 では彼はブルドッグ・ドラモンドの水準に堕している。カラザーズという名前は前に一度使ったはずなのに、これを別の人物に与えている。ルーカスという名前も同じだ。またもや怪しい外国の紳士 (もっとも今度はやや卑賤の出である) が、こう呼ばれている。『獅子のたてがみ』 や 『悪魔の足』 に至っては、単に博物学の蘊蓄を傾けただけであって、とうてい探偵の仕事とは言えないだろう。しかしそれでも、仮に現代の探偵小説作家全員が一斉に新作を発表したとして、そのうちの一冊が新しいホームズであったとすれば、まず読むべきはホームズなのである。

 もちろんホームズ物の魅力の秘訣は、推理の力ではなく、ドラマを作る力にあるのだ。しかもドラマの効果を一点に集中させる手際が絶妙なのである。話の内容はつまらなくても、形式はほとんど常に完璧である。御膳立てが実によく出来ているから、結末の方は 『赤毛連盟』 のように初めから分っていても、我々は受入れてしまう。(ところで、あの時代といえども銀行強盗だけで極刑になったものだろうか? つまり、捕まったジョン・クレイが 「縛り首になるぞ」 と叫んだのはなぜかということである。これはノックス神父も見逃された問題の一つであろう。それに盗賊どもはいったいどんな服を着ていたのか。アセルニー・ジョーンズはクレーの共犯の服の裾をつかまえたというのだが。) それに、作者が (やはりサー・アーサーにも触れぬ訳には行かないだろう) 感情を抑える分別、というよりむしろ本能を持っていることは、認めねばならない。むろん、やり損いは何度かある。たとえば 『孤独な自転車乗り』 では、「女の身に降りかかる最悪の運命から彼女を救う」 云々の台詞やその後の 「強制結婚」 などは、話自体を書かれた時代より五十年ほど古いものにしてしまう。『第二の汚点』 では (ちなみに、この話のプロットは 『海軍条約事件』 ですでに一度現れ、『ブルース・パーディントン設計書』 で繰返され、『マザリンの宝石』 ではアーニー・ロティンガの嵌り役になりそうな剽軽なボーイで補強されて、また使われる。ところで、この 『マザリンの宝石』 では 「ネグレット・シルヴィアス伯爵」 という名前がどうもいただけない。ストーク・モランのロイロット博士を創り出した作家の命名とも思えないではないか。人物自体も、モリアーティ教授の創造者にふさわしからぬ不出来である)――話を戻すと、『第二の汚点』 では、ヒルダ・トレローニー・ホープ令夫人なるものが、どうも途方もない人物ではないか。「結婚前に書きました軽率な手紙――他愛のない手紙、いっときの感情に駆られた少女の手紙でございます」 というのだが、今やこのような手紙では探偵小説は成立たないのである。もっとも、言外の含みを消し去ろうと作者が苦心しているのは認めねばならないが。しかし全体として、サー・アーサーは感情を抑えている。探偵小説が古びるのは感情過多の部分からなのである。

 しかし作家はすべてホームズに負うところがあるはずである。そして小説の批評家は、フィクションの登場人物のリアリティを論ずるならば、まずホームズを研究すべきであろう。ここには豊かな人間性も巧妙な心理描写も人の心の深い知識もない。ホームズは明らかに一つの公式である。ディケンズやサッカレーやジョージ・エリオットやメレディスやハーディの登場人物のリアリティはなく、ジェーン・オースティンやブロンテ姉妹やヴァージニア・ウルフやジェームズ・ジョイスとも比べられない。しかし我々にとって、ホームズはフォールスタッフやウェラー父子に劣らずリアルなのである。彼は優れた探偵でさえない。しかしサー・アーサー・コナン・ドイルは同時代でもっとも偉大なドラマ作家の一人なのではないだろうか。

T. S. Eliot, “Books of the Quarter: The Complete Sherlock Holmes Short Stories,” in The Criterion, Vol. 8, no. 32, April, 1929, pp. 553-56.

 

エリオットとホームズ

植村昌夫

 『荒地』 の詩人T・S・エリオット (1888-1965) はシャーロック・ホームズの愛読者であった。アーサー・コナン・ドイル (1859-1930) が 『緋色の研究』 を書いたのは1887年、『ボヘミアの醜聞』 を初めとする六編をストランド・マガジンに載せたのは1991年である。エリオットは子供のころアメリカで初めてホームズを読んだのであろう。シドニー・パジェット (エリオットは名前を忘れたと言っているが) の挿絵入りの版がアメリカでも入手できたのだろうか。

 エリオットは大人になってからもホームズを読み続け (『事件簿』 の刊行は1927年、エリオット39歳のときである)、いくつかの作品に引用している。

 劇団四季が2004年11月から再演している 『キャッツ』 の原作は、エリオットの詩集 “Old Possum's Book of Practical Cats” である。この本には “The Naming of Cats” (The naming of cats is a difficult matter, ……) に始まる十五編の猫の詩を収めるが、そのうちの十編目、“Macavity: the Mystery Cat” を見てみよう。

 第一連はスコットランドヤードを悩ませる大犯罪猫マキャヴィティの紹介である。

Macavity's a Mystery Cat: he's called the Hidden Paw―
For he's the master criminal who can defy the Law.
He's the bafflement of Scotland Yard, the Flying Squad's despair:
For when they reach the scene of crime―Macavity's not there!

 第三連は面倒でも英語をよく読んでいただきたい。

Macavity's a ginger cat, he's very tall and thin;
You would know him if you saw him, for his eyes are sunken in.
His brow is deeply lined with thought, his head is highly domed;
His coat is dusty from neglect, his whiskers are uncombed.
He sways his head from side to side, with movements like a snake;
And when you think he's half asleep, he's always wide awake.

「背が高く痩せて、目が落ちくぼみ、額が盛り上がり」 「蛇のように頭を左右に揺する」 のは、猫でなく人間なら、もちろんモリアーティ教授である。ホームズは教授をどう描写しているか。『最後の事件』 を見てみよう。

“He is extremely tall and thin, his forehead domes out in a white curve, and his two eyes are deeply sunken in his head.………His shoulders are rounded from much study, and his face protrudes forward and is forever slowly oscillating from side to side in a curiously reptilian fashion.”

 さらに詩の最終連。

At whatevertime the deed took place―MACAVITY WAS'T THERE!
And they say that all the Cats whose wicked deeds are widely known
(I might mention Mungojerrie, I might mention Griddlebone)
Are nothing more than agents for the Cat who all the time
Just controls their operations: the Napoleon of Crime!

 マキャヴィティは、「犯罪界のナポレオン」 モリアーティ教授の猫版なのである。

 エリオットがホームズを借りている詩は、筆者の知る限りもう一編ある。1935年に書いた 『寺院の殺人』 (“Murder in the Cathedral”) である。これはカンタベリー大司教トマス・ベケットの暗殺 (1170年) を主題とする長編劇詩である。第一幕の中盤、ヘンリー二世と対立しやがて殺されることを予感したトマスは一人自室にいる。四人の誘惑者 (悪魔) が現れ、トマスを試みる。第二の誘惑者はトマスに権力の道を勧めて問答が始まる。 “Who shall have it?” と問うのがトマス、答えるのが誘惑者である。これも面倒だが英語を読んでください。

“Who shall have it?”
“He who will come.”
“What shall be the month?”
“The last from the first.”
“What shall we give for it?”
“Pretence of priestly power.”
“Why should we give it?”
“For the power and the glory.”
“No!”

 原型はもちろん 『マスグレーブ家の儀式』 である。レジナルド・マスグレーブが 「わが家のこの儀式は実に馬鹿げたものでね。まあ、古いことが取り柄だが」 と言ってホームズに見せた問答の写しは

“Whose was it?”
“His who is gone.”
“Who shall have it?”
“He who will come.”
“What was the month?”
“The sixth from the first.”
“Where was the sun?”
“Over the oak.”
“Where was the shadow?”
“Under the elm.”
“How was it stepped?”
“North by ten and by ten, east by five and by five, south by two and by two, west by one and by one, and so under.”
“What shall we give for it?”
“All that is ours.”
“Why should we give it?”
“For the sake of the trust.”

 そっくりである。もっともマスグレーブ家の儀式ができたのはチャールズ一世の処刑 (1649年) の後であるから、トマスの問答の方がかなり古いことになる。1935年6月にカンタベリーでこの劇詩が上演されたときには、すでにアーサー・コナン・ドイルは亡くなっていたが、観客の多くはホームズの引用に気づいたはずである。日本ではエリオット論もホームズ論も多いが、両者の関係を指摘した人はいないようである。

 

T・S・エリオット Thomas Sterns Eliot (1888-1965)
 アメリカに生まれ、のちに英国に帰化した詩人・批評家・劇作家。代表作の長編詩 『荒地』 (1922) は、同年に発表されたジェームズ・ジョイスの 『ユリシーズ』 とともに二十世紀文学の金字塔となった。
 エリオットは、詩 『うつろな人間』 (1925) のあと、1930年代にはいると 『聖灰水曜日』 (1930)、『岩』 (1934)、『寺院の殺人』 (1935)、最高傑作といわれる 『四つの四重奏』 (1944) などの宗教詩を発表する。
 エリオットは批評家としても、『伝統と個人的才能』 (1919) を発表したのち、1922年に創刊した季刊紙 『クライティーリオン』 によってヨーロッパ文明の正統のために論陣を張り、『キリスト教社会の理念』 (1939) や 『文化の定義のための覚書 』(1948) を発表する。1928年に自分の立場を 「文学においては古典主義者、政治においては王党派、宗教においてはアングロ・カトリック」 と規定したことは有名である。劇詩としては、『寺院の殺人』 に続いて、『一族再会』 (1939)、『カクテル・パーティー』 (1949)、『老政治家』 (1958) などがある。1948年にノーベル文学賞を受賞した。
 1939年に発表した Old Possum's Book of Practical Cats は、もともと子供向けの詩の本であるが、ミュージカル 『キャッツ』 に脚色されて1981年に初演された。日本では、劇団四季が1983年に初演し、2004年11月から再演している。
 エリオットの翻訳は、1960年と1971年に中央公論社から四巻本の全集が出ているが、「シャーロック・ホームズ短編全集の書評」 は収録されていない。エリオットのこのホームズ論は、はじめて邦訳されるものである。

(2005.1.27掲載)

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