苦いアーモンド 

 A・B・コックス 小林晋訳


ジェイムズ・ブレイク氏 (特権的な交友仲間の間では “洒落者ジミー” で通っていた) はプラットフォームを足早に歩いていた。列車は今にも出発しそうな気配だったが、ジェイムズ・ブレイク氏は走らなかった。走れば威厳が損なわれるばかりか服装も乱れる。
 客車のドアの取っ手を掴むと、車掌が笛を鳴らし、列車が走り始めた。そのとき、客車の乗客にブレイク氏の目が留まった――太った赤ら顔の女、子ども二人に赤ん坊だ。次の停車駅まで一時間近くある。
 ジェイムズ・ブレイク氏は慌てて取っ手を放し、急いで隣の客室を覗いた。乗客は一人だけ、若い娘が窓際に座っているのを見届ける余裕しかなかった。彼は明るい気分になって乗り込んだ。二十四歳になるジェイムズ・ブレイク氏が経験不足な点で、洒落者ジミーはこっそり背伸びをした。
 彼が客室に入っても、娘は顔を向けず、ブレイク氏は彼女の顔を充分に見ることができなかった。しかし、娘はクッションの張られた座席脇に寄りかかっていたので、窓からの明かりに浮かび上がった上半身片側の輪郭から全体像は想像できた。地味だが、個性的な服装で (「おしゃれな女の子じゃないか」 とブレイク氏は好感を持った)、手袋をはめた小さな手を無頓着に膝の上に乗せていた。他人が乗り込んできたことにもまったく無関心な様子だ。
 ブレイク氏は貴重な時間を浪費するような青年ではなかった。列車がプラットフォームから離れるか離れないうちにもう、同室の女性に愛敬のある笑みを見せて、気取った口調で話しかけた。「窓を上げましょうか、お嬢さん、それともこのままがいいですか?」
 娘は返事をしなかった。そもそも彼の問いかけも耳に入っていない様子だ。
 ブレイク氏はしばらく待った。それから恭しい魅力を発散して口を開いた。「ねえ、お嬢さん、窓を閉めたままがいいですか、それとも開けていいですか?」
 それに続く沈黙にはブレイク氏の困惑が宿っていた。率直に当惑していた。高慢な態度なら経験したことがあったし、自分なりの対処法はあった。しかし、この無関心な、断固たる無視は初めての経験だった。
 「妙だな!」 彼は思った。「何のつもりだ? 黙っていろと言いたいなら、どうしてそう言わない?」 彼は思いを巡らして、「はにかんでいるんだ!」 と決めつけた。「緊張をほぐす必要があるな。向こうは駆け引き好きだが、こっちはルールを知らない。ぼく次第というわけか」
 彼はゆっくり立ち上がると、どけようという素振りさえ見せないスエード靴を履いた娘の足をまたいで、向かいの隅の席に陣取った。落ち着いた尊大な態度で、彼は娘を観察し始めた。
 美人であることは疑いない――ヴェールが鼻筋の通った鼻の上でめくり上がって、目の上で皺になって垂れ下がり、顔の上半分は隠れていたが、相当な美人だ。ブレイク氏の貪欲な目は少し開き加減の唇に釘付けになった。
 彼は咳払いをして再び話し始めた。
 「どうやら間違って禁煙車に飛び込んでしまったようです。タバコを吸ってもかまいませんか?」 彼はタバコの箱をとんとんと叩いた。「ご一緒にいかがです?」
 ブレイク氏は自分の感覚が本当に信じられなかった。
 娘が一言もしゃべらないことは充分驚くべきことだった。それどころか、毛筋一つ動かさず、彼が存在することに気づいてもいない様子だ! 静かに胸が上下していなかったら、洋服屋のマネキンに話しかけている気になっただろう。彼は困惑と驚きの入り交じった目で娘を見つめた。
 すると、いきなり謎が解け、彼はくすくす笑い出した。
 「そうか! ぼくとしたことが!」 青年は声を上げた。「熟睡する質なんだ、まあいいさ。さて、目覚めさせることができるかな」
 彼はそっと自分の小指を、娘が膝の上でゆるめに握っていた手の中に差し入れた。娘はぴくりとも動かなかった。ブレイク氏はその手を持ち上げて、白い子ヤギ革の手袋に包まれた華奢な指を伸ばして、弄び始めた。それでも依然として娘の規則正しく、重々しいくらいの息づかいは続いた。
 「くそっ!」 彼は心の中で言った。「ねえきみ、とぼけているのかどうか、いずれわかるよ」 彼はしゃがんで、娘のフロック・コートの縁を持ち上げて、茶色のシルクストッキングに包まれたくるぶしをゆっくりと撫でた。
 「病気なのか?」 ブレイク氏は再び困惑の表情に戻って座席に寄りかかりながら、とうとう考え込んだように口にした。「病気のはずはあるまい。いったいどうして? 赤ん坊みたいな息をしている。いや!」 青年は内心で自分に向かって問いかけていた。「ずるがしこい小悪魔なんだ、そうとも。気づかないふりをすれば、放っておいてくれると思ってるんだ。さもなければ……さもなければほくそ笑んでいるんだ、ぼくがどうするか待ちながら! ほくそ笑むだって? 上等じゃないか。よし、ぼくがどうするか教えてやるぞ!」
 青年はいきなり身を乗り出すと、一瞬で娘のヴェールをはぎ取った。その目は窓の外の走り去る景色を眺めていた。ブレイク氏は声を出して笑った。
 「尻尾を捕まえましたよ!」 彼は勝ち誇って声を上げた。「ずっと空とぼけていたんでしょう? そんなつまらないゲームを仕掛けて、ぼくに借りを作ることになりますよ」
 青年は娘の隣に腰を下ろして、世慣れない男らしくぎこちない手つきで腕を無抵抗な腰に回した。ブレイク氏のやり方は実に不器用だった。それに、茶色いシルクの胸の静かな上下運動が急に止まったことに気づいたとしても、彼にとっては何の意味もなかった。
 「それでは」 娘の小さな帽子の縁の下にある耳に唇を近づけて、彼はささやいた。「どうだい……キ、キスなんてのは、ええ? 見かけほど恥ずかしがっているわけじゃないんだろう?」
 彼は娘を引き寄せたが、娘は青年の腕にこもった力に抗おうともしなかった。列車は何回か揺れ、おそらくその揺れを口実にして――と、訳知り顔のブレイク氏は密かに推測した――娘は自分の全体重を彼にもたせかけてきた。同時に、彼女の頭はそれまでもたれていた窓から離れ、青年の方にぐるんと回って、彼の肩の上にそっともたれた。
 ブレイク氏の勝利は完璧だった。彼は娘の顎を両手で持ち上げると、その唇にむさぼるようにキスした。
 「砂糖漬けアーモンドを食べていたのかい?」 すっかり唇を味わい尽くすと、青年は言った。「ぼくにも分けてくれるかい? やっ、これはずいぶん強烈な味だ! ちっとも甘くない」 彼は顔をしかめた。「苦いくらいだ。いや、やっぱりやめておこう」
 「おい、何とか言ったらどうだい! 強情だな。さあ、もう片方の手を貸してくれ。仲良くしようじゃないか」
 ブレイク氏が娘の手首を掴んでいた手をゆるめると、彼女は力なくぐらりと体を傾けた。娘の姿勢に潜む何かに驚いて、彼ははっと息を呑んだ。次の瞬間、窓際の座席の上に置かれていた娘の片手を彼は探るように求めていた。その手は何かを握りしめていたが、ブレイク氏は掴んでいる指をなかなかほぐせなかった。やがて、真っ青な顔で手のひらにある物を見ながら、彼はしばらく無言のまま座っていた。
 小さな青い薬瓶で、苦いアーモンドの刺激臭がした。
 「何てこった!」 彼はやっとのことでかすれ声でつぶやいた。「ああ、何てこった!」
 娘の目は依然として走り去る野原やコテイジをヴェール越しに見つめていた。
 そしてブレイク氏のからからに乾いた口の中は苦いアーモンドの味でいっぱいだった。
                                         (2004.12.10掲載)

 ここに掲載したのはA・B・コックス (アントニイ・バークリー) Jugged Journalism (1925) 収録の掌篇 “Bitter Almonds” の翻訳です。本書は短篇小説の書き方を教える、という創作講座の体裁で、さまざまなジャンルの短篇をパロディしてみせた作品。ホームズ・パロディとして有名な 「ホームズと翔んでる女」 は、本書の第19講 「文体」 に収められたものです。各章は恋愛小説、探偵小説、ビジネス小説、児童小説など、いろいろなタイプの作品の創作法を指南し、つづいてその実践篇として作者による掌篇が披露されています。この 「苦いアーモンド」 が登場するのは、第13講 「The Gruesome Story (残酷物語)」。色男気取りの若者が軽率な行動の果てにたどりついたのは、まさに苦い味わいのグラン・ギニョール風の結末でした。『プリーストリー氏の問題』 の朗らかな笑いとは対極のブラックなユーモアに満ちた作品です。(F)

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