【フランス・ミステリ通信@】
黄色い部屋はいかに映画化されたか?

ブリュノ・ポダリデス監督による新作をめぐって

坂本浩也


◆ガストン・ルルー 『黄色い部屋の謎』 の内容にふれています。
 トリックや犯人を明かしてはいませんが、同書を未読の方はご注意ください。


『黄色い部屋の謎』 とポダリデス兄弟

 さる6月11日、フランスで新作映画 『黄色い部屋の謎』 が公開された。いうまでもなく原作は、探偵小説史上古典中の古典、1907年にガストン・ルルーが発表した同名の新聞連載小説 【フイユトン】 である。

 このルールタビーユ・シリーズ第1作が映像化されるのは、もちろん今回が初めてではない。少年記者の冒険譚をすべて収めるブッカン版 (2巻本) の編者フランシス・ラカサンによると、1913年、1919年、1930年、1948年に映画化され、1965年にはテレビドラマにもなっている。

 今回あらたに映画化を試みたのはブリュノ・ポダリデス。芸術性と娯楽性をかねそなえた軽妙なコメディの作り手として注目の若手監督 (1961年生まれ) である。2歳年下の弟ドゥニ・ポダリデスは舞台とスクリーンで活躍する俳優であり、本作ではこのドゥニが、主人公のルールタビーユ役を演じている。

 興味深いことに、のちに映画監督になるブリュノ少年が初めて 『黄色い部屋の謎』 の世界にふれたのは、書物ではなく映像と音声によってだった。クラスメート宅のテレビで放映されていたマルセル・レルビエ監督による映画化ヴァージョン (1930年) を観たのが最初。さらにその後、長旅の途中に車のなかで8時間半に及ぶ朗読テープを聴いて以来、彼はこのルルーの小説に特別な思い入れを抱き続けていたという。

 ブリュノはまた、奇術師に憧れる少年でもあった。あるインタビューで彼は、大衆小説、密室物、奇術、そしてタンタンの世界 (後述) といった、ほかでもない幼年時代の夢想へと遡る 「個人的な興味」 を一度に扱えることを、『黄色い部屋』 映画化の理由のひとつとして挙げている。おそらく彼の映画は、大人のなかに眠る童心へと捧げられた作品なのである。

 ブリュノ・ポダリデスは脚本も手がけている。当初は思い入れのある原作のすべてを、それこそ厳密に再現しようとしていたものの、長さや密度から断念したらしい。すでに原作を読んでいる観客としては、監督独自の解釈のもと、原作の複雑な構成がどのように変更・凝縮・再構成されているかに注目するのも愉しい。

 一例をあげると、原作では別々の夜に起こっている第2の事件と第3の事件、つまりT字型の廊下で逃走中の犯人が忽然と消失する 「説明のつかない廊下」 事件 (17章) と、射殺されたはずの死体が刺殺体で見つかる 「信じられない死体」 事件 (22章) とが、映画では同じ晩に連続して起きた事件として処理されている。このつなぎ方は、古典探偵小説を偏愛する監督ならではと思えるほど巧みである。

 他方、原作の法廷における答弁シーンが、関係者のみをグランディエ城に集めておこなわれる (再) 現場検証というかたちに置き換えられている点は予想外であった。大群衆の興味と視線を釘づけにする少年記者ルールタビーユ、いわば 「みんなのヒーロー」 の快活な独壇場がなくなったのは残念だが、それにかわる現場での実演とフラッシュバックを交錯させた謎解きシーンにも独特のよさがある。

 陽の射す森のなかで交わされる探偵と犯人の対話と別れの場面は、ことのほか印象的だ。晩秋の暗鬱な城を舞台にした原作と違い、映画では明るい光とあざやかな緑に満ちた屋外の場面がふんだんに織りまぜられ、悲劇的な夜の場面をやわらげている。そこには幸福な夏休みの空気が漂っているようにすら思える。

 原作をときどき思い起こしながら観ていると、上映時間の1時間58分はあっというまにすぎてしまうだろう。再読してから観るか、観てから再読するか。いずれにしても、映画化は黄色い部屋を再訪する絶好の機会である。フランスでは、原作が複数の叢書から新たに刊行されている (本稿末尾を参照のこと)。

 当地での評判はなかなか良好のようだ。新聞雑誌やインターネット上の批評をざっと眺めてみると、好意的な調子が大半を占めている。じつは先日、ポダリデス監督本人が臨席する特別上映会をのぞいてきたのだが、公開から3週間たっているにもかかわらず、学生層を中心に客入りは上々。上映後の質疑応答では、撮影をめぐる興味深い裏話などを聞くこともできた (場所はパリ5区の映画館シネマ・デュ・パンテオン)。

 会の終了後に監督をつかまえて、日本でも公開されますかと聞いてみたところ、答えは 「ぜんぜんわからない。でもそうなればいいね」。傍らにいたプロダクションの女性は微笑んで 「たぶん (公開される)」 と一言。そもそも今の段階でそんなことをきく当方が間違っていたわけだが、それはともかく、ここでは日本での公開を期待しつつ、今回の映画の特徴を少し詳しく紹介してみようと思う。原作の新解釈を打ち出すなどという野心はまったくないけれども、続編とあわせて原典で再読してみたばかりなので、映画と関連させながら、原作独自の魅力についてもふれることになるだろう。残念ながら手元に日本語訳がないため、引用は自分で訳したことをおことわりしておく。

 ネット上では画像や予告編が公開されている。今から気になる方は、ぜひ公式サイトのほうをのぞいてみてほしい。ちなみに現在、ポダリデス兄弟は、続編 『黒衣婦人の香り』 の映画化に取り組んでいるとのことである。

原作の三要素──ロジック、メロドラマ、ユーモア

 原作は探偵小説好きであれば誰もが読んでいるはずの作品だが、読んだと思って忘れている細部も少なくないのではないだろうか。映画の紹介に入る前に、原作について一言ふれておきたい。といっても、あらすじ紹介はネット上を検索するだけでも簡単に入手できるので、ここでは繰り返さない。

 『黄色い部屋の謎』 の探偵小説としての主な魅力は、よく知られた 「心理トリック」 の活用よりもむしろ、矢継ぎ早に不可解な事件を繰り出す巧みなプロットと、周到にばらまかれた手がかりを回収するロジックにあるといってよいだろう (より正確には 「レトリック」 というべきかもしれないが)。

 ルールタビーユの推理法が、好敵手ラルサンとの対決をとおして 「反ホームズ的な」 ものとして提示されている点は、やはりあらためて確認しておくべきだと思われる。眼に見える痕跡をもとに推理するのではなく、まず推理して論理的に揺るぎない真実を見抜いたうえで、痕跡の意味を考えることが問題だと彼はいう。

 この推理法を説明するさいのルールタビーユの言い回しが面白いので直訳的に引用しよう。彼は理性を一本の棒 (ステッキ?) に喩えるのだ。「理性にはふたつの端 【はし】 があります。いい端っこと、わるい端っこです。もたれかかってもしっかり支えてくれるのはひとつだけ。そっちがいい端です! この端はどうやっても折れないので、そうだとわかります。何をやってもです! 何を言ってもです!」 少年記者の思考システムはこうなっている。「僕は外側に現れたしるしに真相を教えてくれと求めたりはしません。ただ僕の理性のいいほうの端が示した真相に逆らわないよう求めるだけなのです!」 (27章)

 物語の終盤、大群衆がつめかけたヴェルサイユの法廷にて、「理性のいいほうの端 (ル・ボン・ブー・ドゥ・ラ・レゾン)」 を使って謎を次々に解いてみせる少年探偵の論理と弁舌は、何とも爽快で心憎い。

 したがって、昔から読者や批評家たちがオールタイムベストにあげてきたのも当然と言えるわけだが、その一方で、この作品のメロドラマ的な演出をマイナス要素と見なす傾向も確かに存在する。現代小説に慣れた読者の眼には、ルルーの小説は、語りが何とも大げさで扇情的──乱れ飛ぶ感嘆符とイタリック体の強調 (日本語では傍点)──、ときには不必要なほど感傷的、さらに人物像もステレオタイプ、と見えるかもしれない。メロドラマ的な盛り上げ方は、続編 『黒衣婦人の香り』 において顕著になる。

 とはいえ、作品の書かれた時代が、家族の悲劇と犯罪の恐怖に焦点をあてた 「大衆小説」 から、より頭脳的かつ 「純粋」 な 「探偵小説」 への移行期にあたることを括弧に入れて、後世の基準で 『黄色い部屋』 の価値を測るのは、いささか不当かもしれない。フランスで 『アクロイド殺し』 の翻訳とともにマスク叢書が刊行を開始したのは1927年。同じ年にこの世を去った作家ルルーは、大衆小説と探偵小説の橋渡しをした存在だった。

 『黄色い部屋の謎』 が古典の地位を得ているのは、こうした歴史的かつ構造的な 「不純さ」 と無縁ではないと思われる。不純だということは、言い換えれば、再読・分析に値する 「複合的」 な作品、単純な要素に還元できないため読み捨てのできない作品ということではないだろうか。

 この小説の特異性は、おそらくメロドラマの展開とロジックの探究という異なる矢印が、まさに探偵の存在において交差していることにある。そして、この二本の矢印をからめとるようにして束ねているのがユーモアであるといっても的外れではないだろう。

 ロジック、メロドラマ、ユーモア。ポダリデス監督は、原作を特徴づけるこの三要素をどのように配合させているのだろう? 彼の映画によるルルー解釈を理解するためには、意外なことに「タンタンの冒険」という補助線をひくことが有効になるのである。

ルールタビーユ=タンタン?

 映画の紹介記事や監督のインタビューをいくつか読んでみると、「タンタンの冒険」 との比較が多いのに気づく。フランスには夜のテレビニュースで新作映画をとりあげる習慣があるが、封切日の晩に国営放送フランス2を見ていると、主演のドゥニ・ポダリデス本人がルールタビーユとタンタンとの親近性を語っていた。

 ごぞんじのとおり、ベルギーの漫画家エルジェが創造したタンタンは、愛犬スノーウィ (フランス語原作ではミルー) をつれて世界を飛びまわる少年記者である。今すぐ思い出せる範囲でも、たとえば 『オトカル王の杖』 や 『カスタフィオーレ夫人の宝石』 には、まぎれもなく探偵小説的な趣向があった。

 ブリュノ・ポダリデス監督は熱狂的なタンタン愛読者として知られている。とにかくルールタビーユとタンタンはフランス語圏がうんだ大衆的かつ神話的な少年記者キャラクタであるという点で共通しているのだから、この比較はかなり自然なのかもしれない。

 とはいうものの、巨大なおでこをもつルールタビーユと、前髪を巻き上げたゆでたまごのような顔のタンタンを重ね合わせるというのは、なかなかの力業ではないか。問題はもちろん顔の造作にとどまらない。

 どこまでも透明で真っ白なタンタンに、仲間はいても秘密の過去や家族はなく、したがってタンタンが事件を捜査する動機は、純粋な冒険心や正義感、友情といった健康的なエネルギーにほかならない。

 それに対し 『黄色い部屋』 のルールタビーユは、読者の共感を誘うとはいえやはりどこか謎を秘めた不透明な存在であり、彼が密室の謎に取り組む内密な動機こそが、隠れた物語最大の謎にほかならない。黄色い部屋に初めて足を踏み入れた場面で彼が呟く 「黒衣婦人の香りだ……」 という言葉は、「タンタン的な存在」 には口にできないものではないか。ルールタビーユをタンタンにしてしまうと、彼のメロドラマ的な半身 (出生の秘密) が描けないのではないか。

 ──といったことを漠然と考えていたのだが、実際に映画を観てみると、そのあたりをポダリデス兄弟はうまく扱っていた。ルルーの物語に漂うユーモアを 「タンタン的」 に増幅させる一方で、主人公のメランコリックな側面も表現しているのである。

 これは一目瞭然だが、登場人物すべての造形が、とりわけ視覚的な意味でエルジェの 「漫画 【バンド・デシネ】」 をモデルにしている。原作にない漫画的なギャグもたびたび登場する。こういえばだいたい想像がつくだろうか──かなり頻繁に、まるでルルーの原作をエルジェが脚色して漫画化し、それをポダリデスが丁寧に実写化したかのような場面が見られるのである (もちろん映画的な工夫はいろいろと凝らされているわけなので、この表現に当てはまらない要素も少なくないのだが)。

 ときに事件のさなかにまで持ち込まれるユーモラスな 「軽さ」 は、もしかすると厳密なリアリズムを望む一部の探偵小説ファンを戸惑わせるかもしれない (犯人がいる部屋の前の廊下をあんなにドタバタ足音をたてて何度も往復していいものか、とか)。とはいえ監督が、観客を笑わせ愉しませるためなら犯罪物語としての 「本当らしさ」 を犠牲にしてかまわない、と単純に考えているわけではなさそうだ。この映画における本格ミステリとしての一貫性に対する意識はかなり高い。映画の時間的な制限を考えたうえで 「小さな謎」 を捨て 「大きな謎」 に焦点をしぼり、謎解きを理解しやすくするための工夫もかなりなされている。

 ポダリデス監督の課題は、原作への忠実さを維持しつつ、監督として独自の夢想をも表現することにあったといえるだろう。言い換えれば、探偵小説の古典としての 『黄色い部屋の謎』 の構造を保持したうえで、監督みずからの視点と解釈、世界観を映画化すること。そのためにタンタンの造形世界への参照が活きている。

 それでは主要な登場人物の設定を想起しながら、配役を具体的に紹介してみよう。いずれも見事な俳優による好演だが、ここでは主に原作のイメージ (およびタンタンの冒険) との関連をとりあげる。

登場人物と俳優たち

●ジョゼフ・ルールタビーユ (ドゥニ・ポダリデス)

 原作で18歳の少年探偵を40歳の俳優が (やや気むずかしげに) 演じているのだが、もともと年齢不詳の顔立ちなので、それほど気にはならない。丈の短いズボンにベレー帽、ステッカーが幾つも貼られた鞄をもった彼のスタイルは漫画のタンタンそのものだ。物語も彼の活発な移動によって進行していく。一例をあげると、梯子をかかえて闇夜を駆けるシルエットは、なるほどエルジェの画面から抜け出してきたかのようである。

 「ルールタビーユ=タンタン」 のイメージは最初から監督の念頭にあったわけではなく、衣装あわせの段階でドゥニが、ホームズ風の格子縞ではなくモダンな黒一色のジャケットを着て丈の短いズボンをはいたあたりから明確になっていったらしい。それにあわせ、時代設定も世紀末から1920年代末へと変更されている。

 ドゥニの演技は、活動的なタンタンのイメージから、よりメランコリックな、みずからのアイデンティティの謎を秘めたルールタビーユ像へと徐々に焦点をずらしていく。少年探偵が謎に光をあてればあてるほど少年探偵自身の影が濃くなっていくのであり、「謎、それはルールタビーユである」 と 「テレラマ」 誌 (2787号) の映画評は述べている。この指摘の正しさは、監督本人も認めている。

 結論をいえば、ドゥニ・ポダリデスのルールタビーユはタンタンには還元できない。それどころか、原作以上に謎めいた、厚みのあるルールタビーユになっていると言えるかもしれない。

●サンクレール (ジャン=ノエル・ブルーテ)

 ワトソン役をつとめるサンクレールは、原作では見習い弁護士だが、映画ではルールタビーユの同僚カメラマンという設定に変更されている。それによって視覚的な 「目撃者=記録者」 としての特徴が強調されるわけだが、観客にしてみれば、何よりも 「道化役」 としての活躍が記憶に残る。その意味で、タンタンの愛犬スノーウィの役回りに近いというと言いすぎだろうか。

 監督にとっては、1998年の 「神のみぞ知る」 (筆者は未見) に出演したドゥニとジャン=ノエル・ブルーテのコンビが再び活躍できるという点も、『黄色い部屋』 を映画化した数ある理由のひとつだったらしいが、なるほどギャグ連発のこのコンビは、後述するド・マルケ判事と書記のコンビとともに、この映画のユーモラスな側面を支えている。

 たとえば物語の後半、真夜中にサンクレールがひとりで犯人の登場を見張る場面がある。映画では、そのための隠れ場がなんと振り子時計のなか! もちろん詳しくは観てのお楽しみだが、ルールタビーユの指示のもと、彼が時計に隠れてからしばらくのあいだ、映画館の客席は爆笑の渦に包まれっぱなしだった。

●ド・マルケ判事 (クロード・リッシュ)

 個人的には、この映画で最高の配役。偽名で戯曲を書いているこの予審判事は、解けない謎を偏愛する一種のアンチ探偵であり、原作でもかなり味わい深い存在だが、書記をツッコミ役にしたがえたボケぶりは映画でも秀逸だ。「わしには理解できん、まったく理解できんよ」 と、ほくほくしながらこぼす判事に対し、書記いわく 「ですが、理解しようとつとめるのが判事の義務ではありませんか」 「うむ、もちろんじゃよ」。(この一コマは、上にあげた公式サイトの予告編で観ることができる)

●フレデリック・ラルサン (ピエール・アルディティ)

 フランス警視庁きっての名探偵。ルールタビーユにとってはライバルでもあり、尊敬する一種のモデルでもある。ポダリデス監督にとってラルサン役はアルディティ以外に考えられず、あまりに自明に思えたからこそ他の役者を何年も探したらしいのだが、他人にとってはそれほど自明でもないと聞かされて、最初の印象に忠実に、「初恋の相手」 に依頼したとのこと。

 このアルディティがまたかなりのルルー愛読者で、役作りにもきわめて熱心だったらしい。彼が体現する両義的な雰囲気──紳士的な冷酷と暴力的な誘惑──には、かなりの説得力があり、「本物はこうだったかもしれない」 と思わせる見事なラルサンになっている。

 また彼の部下たちの服装が、「タンタンの冒険」 の名脇役デュポン&デュボンを思わせて笑える。ちなみにポダリデス監督は子供時代、この刑事コンビ・デュポン&デュボンが今にもタンタンを逮捕するんじゃないか、と怖ろしくて気が気ではなかったようだ。ラルサンの部下も、刑事というよりはギャングめいている。

●マチルド・スタンガーソン (サビーヌ・アゼマ)

 原作ではかなり理想化されたかたちで描かれているマチルド嬢だが、映画では社交界の視線を釘づけにする知的な絶世の美女といった役回りではなく、たしかにエレガントではあるものの、むしろ隠居した父のもとを離れられない内気なオールドミスといった雰囲気のほうを濃く漂わせている。彼女の台詞はあまりなく、気絶シーンなどを見せ場とする時代がかった過剰な仕草と演技は、無声映画のヒロインに喩えられるほどだ。

 映画全体にいえることだが、漫画的な描写とメロドラマ的な演出の切り替えには何度か当惑させられた。とりわけ、マチルドを中心にして、黄色い部屋における殺害未遂事件の全貌を再現するシーンの演出には、疑問がないわけではない。探偵小説の謎解きにつきものの 「たわいなさ」 が孕む危険、もっともらしい悲劇が突如ナンセンス喜劇に見えてしまう危険を、一瞬ながら思い起こさせる演出なのだ。

 簡単にいってしまうと、ポダリデス監督は、ドラマチックな演出に徹するのでもなく、漫画的に距離 (ユーモア) を保って描き続けるのでもなく、ふたつの視点を交互にミックスさせているのだ。これは困難な綱渡りである。結果として、悲劇性と遊戯性が相殺しあっているのか、それとも互いを引き立てあっているのか、観客の見方はそれぞれだが、この異質な調子の交替ゆえに、奇妙なほど鮮烈な印象が残るのも事実である。映画の決定的な場面は、感傷的な犯罪メロドラマにも、ふざけたユーモアミステリ (ないしパロディ) にも還元されえない。そのことは、冒頭でふれた原作の 「複合性」 に対応しているといえる。

●スタンガーソン教授 (マイケル・ロンズダル)

 ガストン・ルルーは、スタンガーソン父娘を、ラジウムの発見者キュリー夫妻の先駆者(!)として描いており、教授は、高名かつ厳格な物理学者にして娘の悲劇を前に絶望する父親というメロドラマ的な役割に回収され、きわめて印象が薄い。

 ところが映画のなかの教授は、「タンタンの冒険」 に登場するビーカー教授 (フランス語原作ではトゥルヌソル [ひまわり] 教授) にも似た風変わりな老発明家ときている (さすがに彼ほどではないが)。

 スタンガーソン教授の珍妙な手作り装置が事件の悲劇性を中和するための絶妙なユーモアをかもしだしているあたりは面白い。屋根にレンズを備えつけた太陽発電車や、事件現場を照らし出す手回し発電のサーチライトはなかなかの逸品で、監督の徹底的な遊び心が感じられる。

 映画では冒頭から、鉄球 【ビーユ】 の滑降や移動をモチーフにした機械仕掛けが登場する。これはポダリデス監督の企画とは無関係に彫刻家ファビアンが制作していたものらしいが、もちろん、ルールタビーユの活動を象徴するメタファーのようなものだ。何度か金属板の傾斜をゴロゴロと転がって画面を横切った後、おもちゃの蒸気機関車のうえにガタンと着座する黒い鉄球。ミニチュア機関車が広大な草原をかきわけて進んでいくと、やがて森のあいだにグランディエ城の影が浮かび上がり、観客は事件の舞台に誘われることになる。

 スタンガーソン教授の実験室にも、鉄球が行き来するおかしな装置がつまっている。眺めていると、手作りのビー玉迷路で遊んだ小学校時代が思い出されてくる。こうした童心をくすぐる機械仕掛けをルールタビーユの名前と結びつけたのは、ポダリデス監督独自の見事な発見だと思う。不可解な犯罪をめぐって推理をこらすルールタビーユの世界とは、ビー玉の転がる軌跡を息をのんで見つめる子供の世界と同質なのかもしれない。

●ロベール・ダルザック (オリヴィエ・グルメ)

 原作ではメロドラマ的な設定ゆえに、スタンガーソン父娘とならんで影の薄い婚約者ダルザックだが、事件の第一容疑者である。ソルボンヌの教授だというのに、映画では哀れなほど頼りなく、率直に言って愚鈍にすら見え、細い眼の奥で何を考えているのかわからない不気味な存在感を醸しだしている。これは一種の怪演。

●それ以外の登場人物

 上にあげた以外では、ジャック爺さん (ジュロス・ボーカルヌ) をのぞく登場人物は、かなりの変更をこうむっている。使用人のベルニエ夫妻が旅籠のマチュー夫妻をかねているうえ、ベルニエ夫人は信心深いアジュヌー婆さんの役回りをも担っている。

 また 「緑の男」 の異名をとる猟場番人は、原作ではかなりの伊達男という設定だが、映画ではタンタンの世界から抜け出してきたかのようなアメリカ・インディアンであり、登場シーンでは客席がどっとわいた。マチルド嬢に恋いこがれるアメリカ人、アーサー・ランスにいたっては、映画に登場すらしない。続編では当然でてくるものと思うが、どうだろう……。

 監督は、それぞれの登場人物が、影絵芝居のようにシルエットだけで判別できるように工夫したと語っている。実際、逆光や夕暮にシルエットが浮かび上がるいくつかの場面は、鮮やかに記憶に残る。

言葉の魔力

 活字メディアである小説に特有の仕掛けや魅力のすべてを映画の世界に置き換えることは難しいだろう。

 原作では、例えば語り手の交替がある。サンクレールは書記の記録やルールタビーユの手記を引用する。これは小説読者に対する 「フェアプレイ」 の構成要素 (言い換えればトリックの構成要素) にもなっているし、またルールタビーユへの感情移入をうながす効果もある。映画のルールタビーユが観客にとってやや距離のある存在になっているとしたら、このあたりにも理由があるかもしれない。

 不可能犯罪ファンの興趣をそそる事件現場の見取り図は、今回の映画では活用されていなかった。書物の平面的な想像力は、映画の立体的かつ時系列的な表現力におきかわっている。

 それにしても、感嘆符とイタリック体 (日本語では傍点) による強調を多用した扇情効果抜群の、それでいてどこかユーモラスな文体は、どうやって 「映画化」 できるのか。監督みずからこの点に悩んだと語っているが、結局、画面上に活字を提示するという、無声映画めいたかたちで処理されている。

 「だんだんわからなくなりはじめる」 (1章) といった巧みな章題を操るのは作家ルルーだが、ときに主人公のルールタビーユもまた、捜査する探偵というよりも呪文を放つ魔法使い (あるいは催眠術師) のような姿を見せることがある。相棒のサンクレールが茫然とするなか、少年記者に謎の言葉を投げつけられた相手は突然ころりと態度を変え、唯々諾々と質問に答え始める。

 旅籠のマチュー親爺に投げつける言葉、ナンセンスとしか思えない 「これからは、生焼きの肉を食わなきゃいけなくなるぞ」 という文句も秀逸だが (10章)、とりわけダルザックを打ちのめす不可解な言葉、「司祭館は何ひとつその魅力を失わず、庭の輝きもまた同じ」 は、ほとんど一行の詩文である (13章)。

 この文句は、ジョルジュ・サンドの疑似書簡からほぼそっくりそのまま借りてきたものらしい。ただしサンドの原文では、「その魅力 (son charme)」 ではなく 「その清潔さ (sa proprete)」 という語が用いられていた。作家ルルーは、名詞をたったひとつ替えるだけで、文章から韻律的な重さをとりのぞくと同時に、詩的な魔法 (charme) を孕む謎めいた文句を生み出したわけだ。

 作中、この言葉は、犯人がマチルドに宛てた脅迫文の中におかれている (ルールタビーユがこの言葉を知ったきっかけを、読者はあとで知らされる)。ポダリデス監督は、怖ろしい犯罪者がこのような見事な文句の書き手である点に、原作の鍵を見ている。

 読者/観客は、まず 「司祭館」 という語が具体的に何を指すのか皆目検討がつかず当惑するわけだが、それでも 「昔と何も変わっていない」 というメッセージは漠然と感受するだろう。過去が過去であることの否定。この怖ろしい否認の背後に秘められた意志の正体は、物語の終幕に明かされる。興味深いことに、この文句が秘めるメランコリーを、次第にドゥニ・ポダリデス演じるルールタビーユもどこか共有しているように見えてくる。その点において、彼はタンタン的な漫画の世界の枠からはみ出していくのである。

小道具に隠された意味

 再読して気づいたことだが、ルルーの原作にはいくつかの印象的な小道具が登場する。黄色い部屋で発見された羊の骨や、フレデリック・ラルサンのステッキといったあたりはいくらなんでも記憶していたが、第2の事件で犯人が現場に置き忘れる老眼鏡、ベルニエ夫人に探させ、ルールタビーユが手にする老眼鏡のことは、それこそすっかり忘れていた。

 クリスチアン・ロバンの論文 「黄色い部屋の 『真の』 謎」 は、この老眼鏡をはじめとする小道具の隠れた意味を解釈している (Europe, no 571-572, 1976, p. 71-91)。とりわけ老眼鏡によって、「見る能力」 と 「書く能力」 が、犯人の側から探偵の側へ移行するという指摘は興味深い。このあたりはオイディプス神話のフロイト的な解釈とからめて論じられているのだが、物語の内容にかかわってくるので、これ以上の説明は控えておこう。既読の方には、なるほどと思っていただければよいし、未読の方には……、急いで原作を読んでいただければよいのである。

 フランス語原文では 「老眼鏡 (binocle de presbyte)」 という言葉と 「司祭館 (presbytere)」 という言葉が呼応していることも言いそえておく。ルルーの原文には言葉遊びも多い。

 残念ながら映画にこの老眼鏡は登場しないのだが、すでに言及したとおり、スタンガーソン教授の発明品や、象徴的な玩具、振り子時計といった小道具にはことかかない。原作の謎解きにおいて重要な意味を持つラルサンのステッキには、より映像的な趣向がこらされているので、公開されたら注目してほしい。

古典と解釈

 ポダリデス兄弟による映画化は、ユーモアと遊び心に重点をおきながら、原作の複合性を失っていない点において、見事に成功していると思う。あるインタビューのなかで、ポダリデス監督はこう述べている。「『古典』 を前にする場合は、それが書物であれ、役柄であれ、音楽であれ、大事なのは解釈であり、その物語を今日どのように感じてどのように語るかということなのです」。そう、「古典」 の魅力は、さまざまな 「解釈」 が可能なところにある。映画化を機に、物語の新たな解釈を求めて原作を再読してみてはどうだろうか。

 余談だが、現在フランスでは、アルセーヌ・ルパンを主人公にした映画が、かなりの予算をかけて撮影されている模様である。ルブランの創造したこの怪盗紳士に関しては、近ごろ事典も刊行された。

 また、エミール・ガボリオの復刻が相次いでいることも指摘しておきたい。それも2社から並行して、『ルルージュ事件』 と 『ルコック探偵』 が出たのには驚かされた。今年はシムノン生誕100周年記念の出版が眼につくのだが (文学的な権威のあるプレイアード叢書から刊行された2巻本は短期間で相当な部数を売り上げたらしい)、それ以外の古典再評価・再発見の流れも確かに存在しているようである。

フランス語で読んでみたいひとのために

 今回の映画化にあたり、フランスではいくつかの廉価版が新たに発売された。これまで一般に流布していたのは、コクトーの序文が付されたリーヴル・ド・ポッシュLivre de Poche版 (文庫) と、フランシス・ラカサン編のブッカンBouquins版 (オムニバス) だが、公開に先立ち、映画のポスターを表紙にあしらったジェ・リュJ'ai lu叢書の版が出た。この版には、ポダリデス監督が原作について語った興味深い序文がそえられている。

 またフラマリオン社のエトナン・クラシックEtonnants Classiques (驚くべき古典) 叢書からは、十代の読者向けと思われる教育的な版が出ている。わかりやすい解説と歴史的文脈を説明する年表にくわえ、理解度をはかる簡単な問題集、さらには原作と比較するためのシナリオ抜粋などが収録されているのが特徴だ。おそらく学校で 「教材」 として使用することも念頭においているのだろう。つまり 『黄色い部屋の謎』 は、世代を越えて継承すべきフランスの 「文化遺産」 と見なされているわけだ。映画の主要な場面からとったカラー口絵 (8ページ分) やポダリデス監督のインタビュー (5ページ分) といったボーナスもあり、映画化を機にフランス語原文を読んでみようという日本の読者にお薦めするとしたら、おそらくこの版になるだろう。

 さて、あとは日本公開を待つばかりである。

(2003.7.9掲載)

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