『毒入りチョコレート事件』 論
  あるいはミステリの読み方について

 真田啓介


◆アントニイ・バークリー 『毒入りチョコレート事件』 の細部にふれていますので、同書を未読の方はご注意ください。なお、同書からの引用のテキストとしては、創元推理文庫版 (高橋泰邦訳) を用いています。


1 多重解決――だろうか?

 『毒入りチョコレート事件』 は、1つの事件に対して複数の解決が示される、いわゆる多重解決の趣向で知られる作品だが、より正確な見方をするならば、むしろ解決の不在こそがその最大の特徴であるといえるのではないか。

 犯罪研究会の面々が順繰りに提示する 「解決」 は、彼らなりの事件の解釈ではあっても真相ではなかったのだし、真相であることの保証がないという意味では、最後のチタウィック氏の 「解決」 も同じことである。(ミス・ダマーズを除く) 他のメンバーからの同意は得られても、それが真相であると作者が地の文で認めているわけではないのだ(ご不審の向きは、どうぞ最後の1ページを読み返してみていただきたい)。

 チタウィック氏の解釈は、物語の構成上は真相であってもおかしくない場所で語られているし、氏は 「確かに実証はできない。しかし、みじんも疑う余地はない。わたしには、どうしても、そうとしか考えられない」 と呟きつつ、自分が真相を探り当てたことを確信しているのだが、そういう自信ならロジャー・シェリンガムの方が何倍も強かったはずなのである。チタウィック氏こそが真の探偵であるという保証はどこにもない。あるいは真相は警察の公式見解のとおり、未知の偏執狂の仕業であったかもしれないのだ。

 クリスチアナ・ブランドは、チタウィック氏の説をも否定して新たな解決を発表しているが、これも原作における真の解決の不在を前提としたものといえよう。少なくとも、作者に保証された解決が存在していれば、このような試みは困難だったはずである。

 さて、「解決の不在」 という観点から眺めてみると、『毒入りチョコレート事件』 は、「本格探偵小説の古典的名作」 といった従来の作品イメージとは大いに様相を異にした姿を現してくるように思われる。解決の不在は探偵の不在を意味し、それはまたゲームの不在をも物語る。黄金時代の真っ只中で書かれた本書は、探偵小説的技巧をきわめ尽くした末に、アンチ・ミステリの領域に突き抜けてしまった特異な作品だったのだろうか。

 だが、そうした方向に議論を進める前に、もう少しこの作品の内実を見きわめておきたい。本書の特徴を 「無解決」 に求めるにしても、作品の構成上は解決篇が大部分を占めており、多くの 「解決」 が提示されているのもまた事実である。それら 「解決」 の在り様を抜きにして、抽象的なテーマのみでこの作品を語ってみても、あまり意味はないであろうから。

2 解決の真と偽

 ある事件に対して複数の解決が提示され、それらが同等の説得力を持つものであった場合、その真と偽を決めるものは何か。

 それは (もちろん話を探偵小説に限ってのことだが) 作者の意思以外のものではありえない。これが真相だと作者が決め、そのように表現したものが、絶対的にその事件の真相なのである。

 この場合、作者以外の人間――探偵役その他の作中人物や、批評家その他作品の読者が、「いや、こちらの方がもっともらしい」 とか 「こっちの方が面白い」 とか言ってみても無駄である。いくら面白くとも、もっともらしくとも、それは偽の解決なのである。

 真偽の標準がそうであるとして、偽の解決は、真の解決とどこが違うのだろうか。――べつに哲学的な問いを立てているわけではなく、ここでの筆者の興味はもっぱら技術的な側面に関わるものである。

 つまり、偽の解決が成り立つためには、真の解決と何かの点で違った――そこで間違えたということになる――立論がなされなければならないが、その相違するポイントは何なのだろうか。これは裏側からいえば、作者はどのようにして解決のヴァリエーションをこしらえるかというテクニックの問題にもなるわけだ。

 それを知るには、素人探偵たちはどこで解決を誤ったかを、一人ひとりのメンバーの立論について検証してみればよい。解決発表の順番が最初になったチャールズ・ワイルドマン卿は、「もし、真相を解明する前に、他のいくつかの推論を検討して、その誤りを指摘することができたのなら、もっと興味深かっただろうに」 と残念がっていたが、筆者はノートを取りながらその作業を行ってみて、チャールズ卿の代わりに大いなる楽しみを味わった。だが、その検討の詳細を記していてはくだくだしくなるばかりだから、ここでは検討結果を総括して報告せざるをえない。

 そこで結論として言えるのは、偽の解決が生まれる原因 (すなわち多重解決のテクニック) は、@証拠事実の取捨選択の誤り、A証拠事実それ自体の誤り、そしてB証拠事実の解釈 (推論) の誤りの3点 ――その中でも特に@とB――に集約される、ということである。以下、それぞれの場合について見てみよう。

(1) 証拠事実の取捨選択の誤り

 ある事件に関わる証拠事実としてA、B、C、D、Eの5つがある場合、解決はこれらすべてに基づいて立論されねばならない。そのいずれかを無視したり、逆にF、G等の事件とは関係のない事実を付け加えたりしてはならないのである。

 こう言ってしまえば明白なことのように思われるが、正確な推理の前提となるこの条件が往々にして無視され、その結果、誤った結論が導かれることになる。

 たとえば、チャールズ卿は、ユーステス・ペンファーザー卿の遺産の大半が夫人に贈られることになっているという、個人的に知り得た事実を付け加えてペンファーザー夫人犯人説を組み立てる一方、犯行に用いられた毒物、ニトロベンゼンのことなどは無視しているのである。

 フィールダー・フレミング夫人の場合も同様で、召使等からの聞き込みで知った、@ユーステス卿は金目当てでワイルドマン嬢と結婚しようとしていた、A一方、ワイルドマン嬢はユーステス卿に首ったけだった、という付加事実を基礎にしてチャールズ卿を告発するが、彼女もニトロベンゼンにはふれていない。

 彼らが恣意的な事実の取捨選択を行ってしまったのは、思い込みに目をくらまされた結果なのだが、推理作家のブラッドレーは、これを意図的に行っている。彼は、誰でも犯人であったと証明できることを示すために、自分が犯人であることを論証してしまうのだ。この作為的な証明のテクニックについて、彼はこう語っている。

「……お話ししたことは全部事実です。しかし、真相の全部をお話ししてはいません。技巧的な論証は、ほかの技巧的なものがすべてそうであるように、ただ選択の問題です。何を話し、何をいい残すかを心得ていさえすれば、どんなことでも好きなように、しかも充分に説得力をもって、論証することができるものですよ。」

 バークリーが多くの作品で多重解決の離れ業を演じることができたのは、このテクニックを自家薬籠中のものとしていたからであろう。たった1つの事実の省略、あるいは付加によって、事件の絵柄をまったく違ったものにすることができるのである。

 したがって、逆にいえば、証拠事実の範囲がすっかり共通であれば、そこから解決のヴァリエーションを導き出すのは――まだ以下に見る手法があるから不可能ではないにしても――かなり困難だろう。この点に関する作者の予防線とも見られるのが、この 「演習」 を開始するにあたって犯罪研究会のメンバーの間で交わされた次の議論である。

 会長であるロジャーが、この演習の趣旨を、各人が独立して推理を進め、独自の方法でそれを証明することにあると説明したのに対して、チャールズ卿が、証拠事実は共有すべきではないかという意見を述べる。「調査は各自独立して行なうにしても、各自の発見した新しい事実は、全員が自由に利用できるように、ただちに提出してはどうですかね」。しかし、この提案は、あまりはっきりしない理由で会長に退けられ、チャールズ卿が不満のようすなので投票にかけられるが、微妙なバランスで否決される。

 ここでチャールズ卿の意見が通っては、作者は甚だやりにくいことになったに違いない。

(2) 証拠事実それ自体の誤り

 前項では、取捨選択の対象になる各事実それ自体は正しいものであることを前提にしていたのだったが、事実自体に誤りがあれば――立論の基礎としていた事実Aが実は存在していなかったり、事実Bが偽装されてAのごとく見えていたのであったりすれば、それに基づく推論は当然誤りとなる。

 このタイプの誤りは、本書ではロジャーの推論の中にのみ見られる。自分の立てたベンディックス犯人説を裏付けるために、彼は中古タイプライター販売店の店員と印刷会社の女事務員にベンディックスの写真を見せて、見覚えがあるという証言を引き出すのだが、その証言は偽りだった。彼らは、あるいは商売心から、あるいは熱心なロジャーをがっかりさせたくないという気遣いから、悪気なく嘘をついたのである。それを(ミス・ダマーズに言わせれば)人間性への信頼が絶大なロジャーは、他愛なく事実と受け取ってしまったのだった。

 これは証拠事実が存在しなかったという場合で、しかも誰の作為にもよらない、人間心理の交錯から生まれた誤解なのだが、通常、証拠事実自体の誤りは、犯人の作為すなわち 「トリック」 によって生じる。密室、アリバイ、一人二役、……等々のトリックは、犯人が何らかの偽装を行なうことにより、事実それ自体を誤認させようとするものだ。

 『毒入りチョコレート事件』 に限らず、バークリーの作品では、この種のトリックが用いられることはほとんどない。いろいろな意味で不自然さを嫌ったバークリーの嗜好の問題でもあったろうが、事実の取捨選択による多重解決の技巧を身につけた作者にとっては、事実それ自体の偽装などするまでもなかったのであろう。バークリー作品論の1つのポイントとして、正統的な本格ミステリの多くがトリックを中心に据えていることとの相違を注意しておきたい。

(3) 証拠事実の解釈 (推論) の誤り

 証拠事実の各々が正しいものであり、かつ、その範囲が的確であったとしても、各事実から引き出される推論に誤りがあれば、結論は当然誤りとなる。

 ロジャーが得意満面で発表した推理の、全体を支える土台石の部分にこの誤りがあった。偶然のことから知った、ベンディックス夫人は芝居の犯人当ての 「賭け」 の前にその芝居を見ていたという事実 (これまた証拠事実の付加) から、ロジャーは切れ味鋭い推論を展開する。――フェア・プレイを重んじる夫人が、答えを知っていて賭けをしたはずがない。ゆえに、賭けは行なわれなかった。ゆえに、ベンディックスは嘘をついている。……

 この推論の誤りを、ミス・ダマーズが指摘する。「シェリンガムさんは女性心理の解釈が寛大すぎます」 (ああ、人間性への信頼絶大なるロジャーよ!)。「わたくしが賭けから引き出した結論は、ベンディックス夫人が評判ほど貞淑ではなかったということでした」。ミス・ダマーズは実際に賭けが行なわれた証拠も握っているのだから、これはロジャーの負けである。「その賭けから引き出せた結論は、たったその二つきりでした。あなたは運わるく、間違ったほうをお取りになったんですわ」

 ここでの教訓は、ある事実から筋の通った推論が引き出せたとしても、それが直ちに正解であるとは限らないということである。それと同程度に筋道だった推論が、まだまだ引き出せるかもしれないのだから。しかし、人は往々にして自分の思いつきばかりを可愛がってしまうようだ。

 最後に発表の機会を与えられたチタウィック氏は、各人がそれまでに発表した結論を比較対照した図表を示しながら、各メンバーの解答が、いかにその人自身の思考と性格の傾向を反映しているかを指摘する。個々の事実の解釈も人それぞれで、たとえば偽手紙が書かれた用紙1つとっても、6通りの推論が引き出されているし、毒物、タイプライター、小包の消印、毒の量の正確さ、等々の事実からも、同様に多くの異なった推理が導かれている。それらの組合せまで考えれば、事実の解釈にはほとんど無限のヴァリエーションがあるといってもよいだろう。

 しかるに、大方の推理小説作家は、多様な解釈の可能性には目をふさいでいる。チタウィック氏曰く、

「その種の本の中では、与えられたある事実からは単一の推論しか許されないらしく、しかも必ずそれが正しい推論であることになっている場合がしばしばです。作者のひいきの探偵以外は、誰も推論を引き出すことができなくて、しかもその探偵の引き出す推論は (それも残念ながら、探偵が推論を引き出せるようになっているごく少数の作品でのことですが) いつも正解にきまっています。」

  『ロジャー・シェリンガムとヴェインの謎』 では、これと同様の見解をモーズビー警部が語っていたし、こうした経験を経て、『ジャンピング・ジェニイ』 ではロジャー自身が友人に同様の意見を述べるに至っている。―― 「ある事実について、いかにもありそうな説明を考えることくらい簡単なことはないんだ。それが正しいかどうかを少しも気にしなければ。あるいは同じ事実に、どれほど多くのいかにもありそうな説明が可能かを知らなければね。それが旧式の探偵小説の困ったところだよ」 (狩野一郎訳)

 多重解決を 「技巧」 と捉えることは間違っているのかもしれない。それはむしろ、通常の探偵小説における 「唯一可能な正しい解決」 という、非現実的な技巧の無理を廃した結果ではなかったろうか。

3 読みの正と誤

 探偵の推理と批評家の読解が同じ性質の行為であることは、改めてチェスタトンを持ち出すまでもなく承認されるところだろう。事件の解決は作品の読みに類比できる。

 してみれば、上で解決について見たことは、大筋においては、作品の読みについても妥当するのではないか。すなわち、解決の真偽の問題は、読みの正誤の問題として読み替えることが可能なはずだ。

 まず、解決の真偽を決めるものは、作者の意思であるとした。これにならえば、読みの正解とは、作者の意図に沿うものであるということになる。これは承認できるだろうか。

 すぐに予想される反論として、作者が必ずしも作品の意味をすべて知っているわけではない、ということがある。作者自身も気づかなかった深い意味を探り当てることこそが、すぐれた読解の要件なのではないか、と。

 しかし、作者の意図を超えた読みというのは、既にあるテキストに基づくものであるとはいえ、ひとつの創造というべきだろう。探偵/犯人、批評家/芸術家の二項対立を前提とするならば、それは芸術家としての振る舞いと言わざるを得ない。

 また、話を文学作品一般に広げる必要はないのであって、あくまで探偵小説の読みについていえば、この極度に構成的な作物の場合は、まず全面的に作者の支配下にあると考えてよいのではあるまいか。例外的な作品に対する創造的な読みの可能性を否定するものではないが、それはやはり読みを超える行為だろう。この点についてはなお議論の余地があろうが、用語法の問題という一面もあるので、今はとりあえず、作者の意図に合致する読みを正解としておく。

 さて、それでは、正解にあらざる読み、誤読はいかにして生じるか。これも解決の誤りとパラレルに考えれば、「証拠事実」 を 「テキスト」 と読み替えて、@テキストの取捨選択の誤り、Aテキストそれ自体の誤り、及びBテキストの解釈の誤り、という3つの原因があることになる。

 このうち、Aについては、それに相当する事態しては、テキストの誤植とか、落丁乱丁の類くらいしかなさそうだから、さしあたり考慮の必要はないだろう。それに気づかない人間が読み誤るだけのことである。

 @に関して言えば、ある1冊の本を読むにあたって、自分に関心のある特定の部分だけに注目し、他の部分は無視する、といったことをする場合に、この誤りが生じる。同じ本に関して種々の読み方が対立するようなことがあれば、その主要な原因はこれだろう。あるいは、ある作家を論じようとするとき、その著作の一部分しか読んでいなければ、全体像を把握することは無理である。少なくとも主要な作品には一通り目を通さなければ、おおよその輪郭すら描き出すことはできないだろう。

 偽の解決とのアナロジーによれば、対象になるテキストの一部だけを読む場合のほか、恣意的に選ばれた他のテキスト (文字テキストに限らず、広い意味で 「読む」 対象) を併せ読む場合にも、誤読が生じることになる。その、他のテキストが、作者との何らかの関わりにおいて必然的に選ばれたのではなく、読み手自身の固有の関心に基づく選択である場合には、それを併せ読むことは、当のテキストの読みに無用の、あるいは不当なバイアスをかけることになるだろう。そのことによって、当のテキストに独自の新しい読みを与えることができたとしても、それは正解との距離が遠くなっただけのことである。

 読みの対象について恣意的な取捨選択が行なわれなかったとしても、Bの解釈の誤りは常に起こりうる。ある証拠事実から引き出せる推論が1つしかないということがあり得なかったように、あるテキストは常に複数の解釈の可能性をはらんでいる。1つの読みが成立したからといって、それが正解である保証はどこにもない。

 犯罪研究会の演習の中では、自分の何らかの思いつきから犯人はこの人物だと決めてかかって、その立論に合わせて証拠事実をゆがめてしまう、といった便宜的なやり方が手厳しく批判されていたわけだが、批評家が、ある作家なり作品について思いついた理論――それ自体は独創的に見えるもの――を声高に主張し、他の読みの可能性は一顧だにしないばかりか、その理論に合わせてテキストをゆがめてしまう、あるいは無視する、といった光景は、残念ながら珍しいものではないように思われる。

 自分の最初の思いつきばかり甘やかすことをしないで、他の解釈の可能性をも視野に入れたとしても、いずれが正解かを判別する便法はない。ただ、読むという行為は、一にも二にもテキストを、テキストそれ自体を――それに触発された自分の思いではなく、ましてや自分の側からテキストに貼りつけた思いではなく――読むことのはずである。そのテキストの語るところを虚心に、仔細に吟味しつつ、客観的に作者の意とするところを探っていくほかはないだろう。正確な読みというのは、手間暇のかかる作業なのである。……そんな面倒なことをしていられるか、自分は自分の好きなように読むまでだ、という人がいても不思議ではない。それが良くないとも、もちろん言うつもりはない。だが、その人のしていることは、厳密な意味では 「読む」 という行為ではあるまい。

 やはり、解決と読みのアナロジーは成立するようだ。誤読は、読む対象の恣意的な取捨選択と解釈の誤りによって生じるのである。それでは、具体に誤読の実例を分析してみたら面白かろうと思うのだが、そして見たところその実例には事欠かないように思うのだが、ひと様の書いたものを勝手にあげつらうのも失礼な話である。ここはひとつ手近なところで、筆者が本稿の初めに示した 『毒入りチョコレート事件』 の新たな 「読み」 を取り上げてみることにしよう。

4 無解決――だろうか?

 『毒入りチョコレート事件』 が解決不在の探偵小説だという読みは、次の2点を根拠としている。

 @チタウィック氏の解決について、テキスト上、これが真相であることの保証がないこと
 Aクリスチアナ・ブランドが新たな解決を発表していること

 これらはいずれも事実であるが、これまでに検討してきたところからすれば、Aは根拠たりえない。読みの正解の基準が作者にしかないとすれば、ブランドの解釈は作者の意図とは無関係であり、余計な付加事実であるから、読みの対象からは除かれねばならない。

 そうすると、テキストにおいて作者が真相と明示していないということだけが 「無解決」 という読みの根拠になるわけだが、この読み方は正しいだろうか。

 真相と明示していないことの意味としては、「チタウィック氏の解決も間違いだった」 というのも、1つの解釈として十分成り立つと思われる。だが、解釈の可能性はこれだけではない。というより、それはいささか人の意表を突いた新奇な解釈なのであって、実は筆者自身、過日この作品を4回目に読んだときに初めて思いついたのである。3回目までは、他の多くの読者と同様、何の疑いもなくチタウィック氏の解決を真相として受け入れてきたのだ。

 それは、作者がそのように誘導しているからである。たしかに、それが真相であるとは明示されていないけれども、普通の小説読者が素直に読めば、誰しもそう考えるであろうように書いてある。「言ひおほせて何かある」 と作者が思ったかどうかは知らないが、芭蕉ならずとも、文学作品における省筆と暗示の効果は、いやしくも文芸に手を染める者として百も承知だったろう。

 つまり、明示がないという事実は、「それを暗示している」 とも解釈できるのである。「無解決」 という読みは、少なくとも、他の読みの可能性を考慮していない点で、短絡的とのそしりを免れない。

 それでは、改めて、どちらの解釈が正しいだろうか。論理的にはいずれも成立可能であり、テキストの該当部分の読みだけでは正誤を定め難いので、ここは判断材料を追加するしかない。それが恣意的な選択によるものであってはならないが、同じテキストの一部であれば、問題なく許容されるだろう。

     S・H・J・コックスへ
        ――こんどばかりは彼も当たらなかったので

 作者の献辞である。この名宛人はコックス姓なので作者の親族かと思いきや、ある出版社の編集者であったらしいのだが、それはこの際どうでもよい。「こんどばかりは彼も当たらなかったので」 ――これは、いつもはバークリー作品の犯人を当てていた流石のコックス氏も、この錯綜したプロットを持つ 『毒入りチョコレート事件』 だけは当てられなかった、という意味であろう。「当たらなかった」 という言葉は、正解があることを前提にしている。すなわち、解決がないという解釈は誤りである。

 これだけで十分と思うが、さらに証拠を追加しておこう。当のテキストからはすっかり離れることになってしまうが、同じ作者の作品だから傍証としての価値はあるだろう。それは、本書と同じ年に続けて発表された 『ピカデリーの殺人』 である。ここではチタウィック氏が引き続き活躍し、入り組んだ謎の難事件を解決する。つまり、チタウィック氏は (シェリンガムとは違って) 真の名探偵であることが明らかにされ、そのことが本書における氏の解決の真実性をも裏付ける役割を果たしているのである。

 これら証拠事実となるテキストの追加により、先の解釈問題は決着すると思われる。だが、今までこれだけの言葉を費やしながら、気がつけば出発点から一歩も進んでいなかったということになると――筆者はいったい、何をしていたことになるのだろう。『毒入りチョコレート事件』 の新解釈を打ち出すべく、意気込んで筆をとったはずだったのだが……。

       「いったい、これはどうしたものかな」
       いい知恵を貸す者は一人もいなかった。

(2002.9.20掲載)

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