封神年表


  西暦(年) 出来事 鳳凰祠 織田家 外部事情   
年齢   年齢         
  第3部 祇祗祠              ffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffffff 織田伊勢守家(上四郡岩倉方)と織田大和守家(下四郡清洲方)      
                 
   天文18年              
                  
                 
                  
  1500             幕府、選銭令を定める
  1506             九頭龍川の戦いで朝倉貞景が加賀一向一揆を破る
  1511             武田信玄
  1515             北条氏康
第3部   1521             細川高国、義植を廃し、義晴を将軍にする
  1524           清康 安祥城  
                 
  1530             上杉謙信
  1532   刹那、生まれる   奉行になる    
  1533 0・1            
  1534
天文3年
1・2       信長、生まれる
那古野城
三男・?
   
  1535 2・3   堺に移る   一二月、守山崩れ
 清康は尾張に進入。岩作城(長久手町)、品野城(瀬戸市)を撃破、守山へ迫った。
 この時守山城を守るのは織田孫三郎信光(信秀の弟つまり信長の叔父)。だが、信光は一戦も交えることなく退却。守山城は清康に占拠される。
松平清康、死ぬ  
  1536 3・4   朋与、幼なじみ         
  1537 4・5       v.s.松平広忠»»    
      秀吉、生まれる    
  1538 5・6       吉乃の方は、天文7年(1538)に生まれ、父は生駒家三代家宗(生駒氏文書による)です。彼女は土田弥平次に嫁ぎましたが、弥平次は明智合戦で戦死    
  1539 6・7            
  1540 7・8     安祥城攻略!!    
  1541
10年
8・9           武田信玄、父を追放して領主となる。
  1542 9・10     v.s.小豆坂»»8月 家康、生まれる12月26日岡崎城にて  
  1543  10・11         於大の父忠政が病没 ポルトガル船、漂着
          鉄砲、伝来
            元服?    
第4部   1544  11・12     安祥城とる?? 於大水野家に帰  
  刹那、虎忍
偶々尾張入り
v.s.斎藤道三»»大敗し、敗走
9月23日?
8月
竹千代、戸田康光の為織田氏に引き取られる。
キリスト教徒、薩摩の国に来る 
      ×信長、結婚»»帰蝶(濃姫)    
  1545 12・13     安祥城 広忠田原城主戸田康光の娘と再婚  
  1546 13・14 刹那、手に入れる 元服 林秀貞らの介添えにて古渡城で元服。三郎信長と名乗る   徳政令?
  1547
16年
14・15 刹那、尾張に。 数えで14歳? 信秀が三河まで進出してきた今川家に対する防備を目的に、標高43メートルの東山丘陵を利用して築城
室町時代から続いた平山城(ひらやまじろ)の城址
v.s.三河»»    
平手政秀を後見役とし三河へ初陣。所々へ放火して帰る
 三河の港町に今川軍が駐留していた時。
信長公記⇒信長は火を放って夜道し攻撃した。
義元痛手を受ける。
  1548
17年
15・16 麻奈?  結婚しろと言う
3月
今川義元、織田信秀を破る第2次小豆坂?合戦。
戸田康光竹千代売り渡し6月  
  1549
18年
16・17       天文十八年(1549)三月三日説。寛政重修諸家譜
   
綾乃との出会い
??
結婚4月? 信長、結婚»»帰蝶(濃姫) 松平広忠、死ぬ家臣に暗殺岩松弥八に暗殺されたともいわれ4月  
  織田信秀、古渡城(現:東別院)から末森城へ移る  熱田に制札を下し、藤原信長と署名(信長文書の初見) 今川氏の触手は伸び、今川義元の軍師太原雪斎が、織田信秀の長子信広の安祥城を陥れるなど、三河は今川氏の支配するところとなります。そして、同八月、今川義元は、人質とした織田信広と、織田家が奪い取った松平家の人質の交換を要求し、織田家もこれを受け入れます フランシスコ・ザビエルにより、初めてキリスト教
   6月   竹千代は織田家から開放  
        3月山崎城落ちる
今川勢10月安祥城落城
織田信広
5回
  1550 17・18 10月↓

 OR
       
  1551
20年
18・19 3月、病死
4月、イタリアへ
綾乃と会う???
  信秀、死ぬ3月3日?   小見の方、死ぬ
  1552 19・20   天文二十一年(1552)三月。 万松寺過去帳。 清洲城の坂井大膳と萱津に戦う。以後同族との争い激化    
  1553
22年
20・21 3月、帰る 平手中務大輔政秀、自殺
忠かん状
    川中島1回目
    道三に会う4月20日      
      今川、尾張に村木城(むらきじょう)を築く。
知多(ちた)半島を制圧するつもり。
   
  1554
23年
21・22 刹那、朋与結婚4月 
冬、子供が生まれる
上総介
秀吉
1月24日、信長、夜明けとともに村木城を攻める。
鉄砲。
信長公記⇒信長は鉄砲を次々と取り替えながら撃たせた。
若者たちは城壁を登り突き落とされても這い上がった。
 今川軍、1日で降伏。今川に初勝利。
信長は涙を流した。
   
  1555
弘治元年
22・23          ×道三、死ぬ  
           
    織田彦五郎信友を討ち、清洲城を奪って居城とする4月 叔父信光と謀り、守護代織田信友を殺害。清洲城を奪取、移転 三月、元服し元信と名乗り  
    清洲城      
  悲劇、起きる        
  消息不明        
  山に篭る半年        
           
        道三、構える  
  1556
2年
23・24 12・13 綾乃に出会う3月        
  尾張に戻ると、(半年振り) 弘治2(1556)年4月上旬、三河国守護吉良義昭殿と武衛斯波義銀様との対面の儀が、
【長】
年?貴種有毒  吉良・石橋・武衛三人御国追出しの事

 尾張の国端の海沿いに、名族石橋殿の座所があった。武衛様と吉良殿はこの石橋殿と通じて信長公に対し謀反をくわだて、河内の服部左京と結んで海上から今川勢を引き入れようとした@。しかし計画半ばにして露見し、御三方は即刻国外に追放された。

 @守護斯波義銀は実権回復を企図し、信長を頼っていた吉良氏と通謀して信長排斥を企てた。
【長】
道三、死ぬ4月20日  
  虎忍を殺害11月   土田氏戦死、及び吉乃が信長と結ばれる    
  葬式の後、尾張へ   稲生村の(名古屋市西区)はづれで柴田勝家ひきいる兵千、

    林美作守ひきいる兵七百が信長に向かう。
八月、信勝派は蜂起
    対する信長は兵七百。

    信長へ向て懸り来る
 
   
  1557
3年 
24・25 13・14 正月、堺に
後は、尾張
    一月、今川義元の姪関口義広の娘(後に築山殿と呼ばれる)を娶ります  
1 15 23 弘治3:
松平竹千代(徳川家康)が、関口刑部少輔義広の娘(築山殿)と結婚する。
  綾乃、隣で働く 織田信広、信長の異母兄。一五五七年、信長に謀反しようとしたが、未遂。その後、許され、一五七四年伊勢長島一向一揆討伐で戦死 嫡男奇妙丸誕生 2 18 23 弘治3:能登守護の畠山義綱が七尾城に篭城し、長尾景虎(上杉謙信)に救援を求める。景虎は食糧を送る。  
5 26 23 弘治3:長尾景虎(上杉謙信)と武田信玄が善光寺の東北4キロほどの上野原で戦闘を起こす(第3回川中島の合戦)。
  祗宮襲われる 弘治二年、土田氏戦死、及び吉乃が信長と結ばれる
弘治三年、嫡男奇妙丸誕生
永禄元年、次男茶筅丸誕生
永禄二年、長女五徳姫誕生

弟織田信行を清洲にさそって殺害する。 9 5 23 弘治3:105代天皇・後奈良天皇、没。62歳。  
11 2 23 弘治3:信長の弟織田信行(勘十郎 武蔵守)が岩倉城の織田信安とはかって再び謀反するが、信長は信行の家臣柴田勝家を抱込んで信行を誘殺する。信行(信勝) 没
短編   1558 25・26 14・15 鬼夜叉、三島明神にて 1558(永禄元年)秀吉 岩倉攻めの後 木下−脇村、加納馬場15貫文給地 村境に吉乃の墓 村内に日吉丸ゆかりの山王権現社あり
第5部   堺に帰る
綾乃に再会する、秋
 末森城廃城 岩倉城の織田信安と浮野で戦い、大勝    
浮野合戦の事

 永禄元(1558)年、信長公は岩倉の織田信賢殿@と戦うべく、7月12日清洲を進発した。
清洲から岩倉までは三十町足らずの距離であったが、直進すれば悪所が続くため信長公は地形を選んで北西に三里迂回し、岩倉西方の浮野Aという地に展開した。
これに対し岩倉方も兵三千を率いて城を出て、信長公と対峙した。

 戦は午刻にはじまった。信長勢は南東へ突撃して数刻にわたって激戦を展開し、岩倉勢を追い崩した。
岩倉勢は壊乱し、逃げまどうところを次々と信長勢に討ち取られていった。
 岩倉勢の中に、近在の浅野という村の士で林弥七郎という弓の名手がいた。敗軍の中弓を片手に退いていたところへ、追撃してきた鉄砲の名人橋本一巴に声をかけられた。
二人は近しい間柄であった。
「弥七郎、汝とは長年の知音なれど、この場に至りては助けることもかなわじ。勝負」
「心得候」
弥七郎は矢をつがえ、振り返りざまに放った。
矢は見事橋本の脇の下へ命中した。
しかし橋本もすでに発射態勢を整えており、弥七郎へ向けて二発玉を発射した。
これも命中し、弥七郎はもんどりうって倒れた。
そこへ信長公の御小姓衆の佐脇藤八が手柄を得ようと走りよって来た。
弥八郎は倒れながらも大刀を抜きはなって応戦したが、ついに討ち取られた。
比類なき奮戦であった。
 信長公は清洲へ人数を納め、翌日首実検を行った。
首数は千二百五十余にのぼった。

 @岩倉織田家では守護代織田信安と子の信賢とが争い、信賢が信安を追放して実権を掌握した。
 A現一宮市
【長】
1 27 24 弘治4:信長 花押 加藤紀左衛門へ
2 5 24 三河加茂郡寺部城主鈴木重辰は今川に離反織田についたので義元に命ぜられ元信(家康)岡崎衆率いて攻める。家康の初陣 自らの指揮によるので岡崎衆喜んで戦った。寺部城下に火を放ち周辺の広瀬、挙母、梅坪、伊保攻め石ケ瀬にて水野信元と戦い潰走させる。功を賞して旧領のうち山中300貫を還付
2 28 24 永祿元:「永祿」に改元する。
3 7 24 信長 尾張 今川の品野城松平家次 攻撃するも敗北
4   24 永祿元:信長2000下津を経て浮野 岩倉は篭城の体制をとったので町屋に放火小競合い程度
5 3 24 永祿元:浪々生活を送っていた将軍足利義輝が細川晴元に擁されて朽木谷から坂本に移る。
5   24 永祿元:岩倉 斉藤義龍と通じる。
6 9 24 永祿元:足利義輝軍と三好長慶軍が白川口で戦う。
  野盗を倒し、
尾張に帰国
  弟信勝再び背き、清洲城に呼び寄せ切腹させる    
  26・27 15・16 綾乃、母親が・・・   上洛し、将軍足利義輝に拝謁。奈良、堺も見物    
  1559 再び綾乃に再会する、3月 永禄2(1559)年春より信長勢は岩倉城に攻め寄せ、城下を焼いて裸城にし、四方を鹿垣で囲み、廻番を定めて長期攻囲の態勢をとった。
攻囲は二、三か月におよび、城内には連日火矢・鉄砲が撃ち込まれた。
万策尽きた織田信賢殿は、ついに城を明け渡して降伏した。
城兵は思い思いに退去し、城は破却された。
【長】 
岩倉城の織田信安を追放。ほぼ尾張を統一 3月6日 徳川信康誕生   
今川軍、領国全てに動員を掛ける。
  1560
永禄3年
27・28 16・17 共に旅をする4月まで 桶狭間 5月12日尾張に向けて出陣。2万5000人。
清須
v.s.今川»» 元康は大高城にあって奮戦中newpage2.htm
伯父水野信元の助言を容れ岡崎城の近くの大樹寺に身を潜め
松永久秀、多聞城を築く。

長浜表の戦い(長宗我部親初陣)起こる。
突き放す、だが・・
桶狭間 5月
  真実を聞く、信長より     元康は、義元の跡を継いだ氏真に信長討伐を勧めます  
  覚醒、守る   信長塀を献上する。     
      美濃へ二度に渡り侵攻するが、いずれも敗退    
第6部    1561 28・29 17・18
3月祝言
5月長崎


6月上海
7月尾張に戻る
1月信長、来る

5月同盟組む
 11日義竜、死ぬ
 13日戦う

7月21日戦い、敗れる
    1561年 川中島の戦い(4回戦)起こる。斎藤義龍没す。
美濃の斎藤義龍が急死。斎藤龍興が家督を継ぐ
斎藤龍興との森部・十四条の戦いに勝利。墨俣砦を奪取
美濃斎藤氏の本拠地、稲葉山城を攻撃するが、敗退
  1562 29・30 18・19     松平元康(徳川家康)と清洲で和睦する。 永禄五年(1562)、元康は、清洲城で信長と攻守同盟を結びます 安祥城をとりこわし
同盟関係にあった尾張犬山城の織田信清が斎藤氏と結ぶ
  1563 30・31 19・20          
  1564         吉乃の方は永禄7年(1564)に小牧山の築城とともに小折から移りましたが、永禄9年5月13日に病死しました。冷酷非情で、戦好きで信じるのはただ自分だけと言われる信長を陰でささえた女性・吉乃。その生涯はわずか29歳で幕を閉じるのでした   1564年 川中島の戦い(5回戦)、上杉軍と武田軍が引き分けで
1565 5月19日早朝、 1565年 松永久秀・三好三人衆、将軍義輝を殺す。
1566 1566年 秀吉、墨俣「一夜」城を完成させる。
1567 美濃斉藤龍興の井ノ口城を落とし、斉藤氏を滅ぼす。井ノ口を岐阜と改め、小牧山より居城を移す。浅井氏と同盟し、妹お市の方、浅井長政と結婚する。 1567年 稲葉山の戦いで、信長が斎藤義興を滅ぼす。
1568 1568年 義栄が将軍に就任。信長、義昭を奉じて入京し、義昭が将軍に成る。 越前より将軍足利義昭を迎え、奉じて上洛、正親町天皇より禁中警護の任を与えられる。 8月伊達政宗(梵天丸)生まれる
1569 1569年 信長、将軍義昭と不仲になる。
1570 1570年 姉川の戦いで、信長が浅井・朝倉連合軍を破る。信長と石山本願寺との石山合戦はじまる。
徳川家康と連合、浅井・朝倉両軍を近江姉川で破る。本願寺顕如の攻撃、伊勢長島の一向一揆と宗教戦。
1571 1571年 信長、比叡山を焼討ちする。 浅井・朝倉両氏に加勢した比叡山延暦寺を攻め、僧俗3000人余を焼き殺す。
1572 織田・徳川の連合軍、三方が原で武田信玄に敗北。 1572年 三方が原の戦いで、徳川家康が武田軍に大敗。
1573 1573年 武田信玄没す。信長、将軍義昭を捕らえ追放。室町幕府滅亡。 元亀4年(1573) 足利義昭を槙島城に攻め、追放する。
天正元年(1573) 越前一乗谷の朝倉義景、近江小谷城浅井久政・長政親子を攻め滅ぼす。
1574 天正2年(1574) 伊勢長島一揆を平定、男女2万人を焼き殺す。
1575 1575(天正3)年、長篠の戦いで足軽鉄砲隊を主力とする戦術で武田勝頼に大勝。 長篠の戦いで徳川家康と連合、武田勝頼を破る。越前の一向一揆を平定。権大納言右近衛大将となる。
1576 1576年 信長、安土城を築いて移る。 近江安土に安土城を築く。石山本願寺を攻める。内大臣になる。
1577 天正5年(1577) 紀州の根来・雑賀を攻める。従二位右大臣になる。
1578 1578年 織田水軍と毛利水軍の戦い。上杉謙信没す。
1579 天正7年(1579) 荒木村重を摂津在岡城に攻める。安土城の天守閣完成。
1580 天正8年(1580)本願寺と和睦。本願寺光寿石山に退去し本願寺焼亡する。 1580年 石山合戦、本願寺が敗れて終わる。
1581
1582 1582年 秀吉、備中高松城を水攻め。本能寺の変で織田信長死す。 信忠に武田勝頼討伐させ、武田氏滅ぶ。明智光秀に中国出陣を命じ、本能寺に攻められ自殺する。(49歳)

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