お礼のご挨拶―――我が青春の
「“脱退”ではなく“卒業”ということにさせてください」そう辻理事長にお伝えした後、不覚にも落涙しそうになりました。74年頃「保谷リーグ(当時)」発足と同時か、1年遅れかでお誘い頂き、ひばり中や柳沢中グランドを舞台に約13年。その後5年ほどの休眠状態を経て93年に復活。年長者は40歳に手が届いていましたが、ピッチに立つ誘惑に勝てず毎シーズン楽しくフットボールさせてもらいました。21世紀に入ってからは、親子で同じユニフォームを着る夢に向かって走り、蹴り、いくつかの家庭ではその夢も実現しました。本当に感謝に堪えません。来年は主力選手の一部は55歳です。転んで怪我することも増えたし、怪我の治癒にも時間がかかるようになりました。故人になられた佐藤仁一さんやジャンルカ(ともにスターダスト)と同世代のオヤジたちは、そろそろレギュラーツアーを“卒業”する時期かと思います。
ちょっとだけ歴史を振り返らせてください。発足時は市民クラブ、保谷クラブ、スターライト、チップトップ、青嵐クラブ、青嵐蹴球団、ちょっと遅れてキャンディーズといったところが主たるメンバーだったような記憶があります。タートルズは当初ビートルズなどという畏れ多い名前で登録し、「そりゃあんまりだ」と「ビ」を「タ」に入れ替えました。75年には単独チームでグアム遠征、壮行試合をしていただき(vsスターライト=5:1で快勝 於ひばり中)リーグから激励金を頂戴したのも思い出です。その節はありがとうございました。当時サブのユニフォームを着た記憶があまりないのですが、まあ緑のボデイに臙脂の袖(ご存じの方はウエストハムの色違い、といえばわかりやすいかも)では、重なるチームもいなかったでしょう。自慢ではありませんがリーグでも市民大会でも優勝
は一度もありません(笑)。個人的には市民大会の決勝で青嵐蹴球団にPKを献上した痛恨の記憶がありますが… リーグ中位のバイプレーヤーみたいな存在でしたね。違うか?
だいたい、そのころの感覚では「30過ぎたらサッカーなんてできないでしょう」というのが常識。けっこう非常識に戦ってきましたが主要メンバーの海外転勤、地方幽閉や前記“常識”にハマっての引退、太りすぎでプレー不能など、さまざまな事情から人数が足りなくなり88年あたりで、いったん“卒業”させてもらいました。しかし“フットボールは麻薬”とはよくいったもの、Jリーグ発足を起点とするブーム沸騰に再度“全員集合”。理事会のご厚意で2部で再出発の運びとなりました。とはいえこの“ロートルズ”にとってリーグ戦は苦戦続き。ビリケツはなかったけれど、上位チームには安定して白星を供給し続けました。人数の足りない試合も何回かあったはずです。
伝手を頼って「若き血」を導入ししのぐ一方で、心の支えとなったのは「親子でピッチに立つ」という夢でした。それは6つの家庭で成立し、子供の友人まで巻き込んで02年には3位、04年には2位に躍進。子供が走り回って供給したボールをオヤジがシュートする場面も多く見られました。なかでも印象に残っている試合は、03年市民大会2回戦、コンフィアンサ戦でしょうか。この年昇格するコンフィアンサは昇竜の勢いでしたが、ベストメンバーで迎え撃った当方も互角に渡り合いました。老若がうまくかみ合って2:0の勝利、復活後では一番の成績(8強)となりました。嬉しかったので翌年、最後のユニフォーム(赤白+青+白)を作りました。ちょっと早いけど還暦を意識して、パラグアイのレプリカにしました。もっともメイド・イン・タイランドをメルボルンで仕入れるという荒技でしたが(安いよ:笑)。
ユニフォームは新調したものの、ジュニアたちの活躍に伴いオヤジたちの出番は年を追うごとに減りました。さいわい「シニアリーグ」を作って頂いたので、何人かはそちらにお世話になることにしました。「市民tクラブ」の「t」はタートルズの「t」なんですね。こちらのほうは、今後もお世話になりたいと思っています。あと何年できるかは???ですが…
少ないグランド、市との折衝など理事会のご苦労は大変かと察します。またホームページの充実など、楽しくフットボールできる環境を整備して頂き、感謝に堪えません。こういう「草の根スポーツ」の発展が、日本のサッカーを支えているんですよね。(画面の向こうから「同感!」という声が聞こえました。ありがとうございます:笑)けして引退するわけではないので、またどこかのピッチでお会いすることになるでしょう。そのときはお手柔らかに、なにしろ怪我の治りが遅いもので…
タートルズ 終身マネージャー K島