許し難い映画

これまで観たうちでも、大嫌いな映画が「評決のとき」である。つまらない映画は腐るほどあるが、腹が立つほど嫌いな映画はこれ以外にない。

筋立てはこうだ。白人のゴロツキが、貧しい黒人少女をレイプする。少女の父親は、逮捕された犯人を、裁判所内で射殺してしまう。この父親を弁護して無罪にする、という話である。

監督は、無節操無定見の雇われ監督、J.シュマッカー。「バットマン」シリーズを下らなくした張本人として、悪名高い人物だ。これだけでもそのつまんなさは想像つくが、許し難いのは、作品を感動的なものにするために、倫理的にも少女の父親を正義の側にしようとしたことである。

冒頭、激しいビートの音楽にのって、車を暴走させ、悪事を働く犯人が映される(と言っても、コンビニで意味もなく暴れるだけ)。挙げ句にいたいけな少女を強姦する。つまり、犯人が悪であり、少女の父親に射殺されても当然であるとしたわけだ。

だが、これは明らかに間違いである。なるほど、レイプは倫理的に許し難い犯罪であるが、父親が犯人に私的に報復して良いということはない。いや、報復しても別に構わないが、法が公的にそれを許すなどということはありえないし、あってはならない。それを許せば、レイプの被害者の肉親は、犯人をリンチしてもよいということになるからだ。レイプもまた、法によって裁かれねばならない。その刑罰が被害者の意に添うかどうかは、別問題だ。弁護士は、本人も涙顔で、延々と少女の苦痛を訴える。観ている方はうんざりである。結局父親は、心神喪失で無罪を勝ち取る。しかしそれは、正義などではなく、ただの法廷戦術の勝利にすぎない。どだい、ライフル抱えて裁判所で待ち伏せる男のどこが心神喪失か。

元来、J.グリシャムの原作は、法廷に正義などなく、駆け引きがあるのみと割り切った、コン・ゲーム的な作品である(らしい。映画化された作品がそろいもそろってつまらんので、原作も読んでいないのだ)。父親の勝利も、その結果と割り切っていれば、陪審制度と弁護士の生態への皮肉が効いた、それなりに面白い映画だったかもしれない。だが、制作者は、これが本当に感動的な話だと思っているらしいのだ。制作者も救いがたいが、これに感動する観客は(もしいたらの話だが)、いい面の皮である。ま、「アルマゲドン」で感動する人もいるご時世だし。