プラネテス

より間口を広くするために、会社ものという体裁をとったアニメ版だが、タナベを主人公にすえたのはまだしも、ごく普通の女の子にしてしまったのは、やはり失敗だったと思う。原作のタナベは、途中出場ということもあってか、棺オケ盗んだりいきなりキスしたり、かなりブッとんだ性格である。初登場はゲロシーンだし。3巻で明らかにされるその出自は、捨て子であり、幼少時は鳥や猫と話すことができたというシュールなもの。

アニメ版では、ことある毎に愛を唱えるものの、クレアの「あなたの愛は薄っぺらいのよ」の一言に粉砕される。これはまさにそのとおりだ。貧困、差別、暴力が支配する現実に、タナベの言葉は何らの力も持たない。しかし、そのクレアを、命を賭して救うことで、タナベは自らの信念を実証する。
とても理の通ったシナリオである。しかし、だ。原作でタナベが示した力は、こんなにも分かりやすいものだったろうか。もっとデモーニッシュで、蠱惑的だったような気がするのだ。デモーニッシュと言えば、象徴的だったのが白猫の扱いである。原作では、迷えるハチマキの前に現れるメフィストフェレス的な役割だったのが、アニメ版では単なるテロリストのポストペットになってしまった。それも出来レースの。矮小化、と言うべきである。
アニメ版「プラネテス」は優れた作品だが、私の好きだった「プラネテス」ではない。

一方原作の方も、単行本4巻から迷走を始める。宇宙を舞台にした戦争はいいとして、問題はサンダース大佐の扱いである。何とかして開戦を回避しようとしたサンダース大佐が、何で悪役扱いなのか。少なくともフィーが戦っていたのは、彼ではなかったはずだ。作者か編集サイドかに、混乱があるのではなかろうか。

これは余談。2003年36号掲載の24話で、デブリの流星に少年がお願いした内容がマーリンズ優勝だった。フロリダが舞台だから妥当なお願いだが、皮肉なことになんとこの年、本当にフロリダ・マーリンズがヤンキースを破り、ワールドチャンピオンに輝いたのである。36号と言えば9月頃だろうか。嘘から出た誠と言うか、デブリの流星にも御利益はあった、というところか。

ところで、とりあえず「プラネテス」を終了させどうするかと思ったら、なんと少年マガジンで連載開始。確かに同じ講談社だが。これも意外なことに、11世紀の北欧を舞台にした「ヴィンランド・サガ」。マイケル・クライトンの「北人伝説」を彷彿とさせる設定だが、「プラネテス」と同じく、「ここではないどこか」を希求する魂の物語になりそうだ。