イノセンス

いかにも押井守らしい長ゼリフが爆裂する本作だが、表面的な難解さにあまりとらわれず、恋愛映画として観た方が楽しめる。
ポイントのひとつは、バトーのクルマの暗証番号。少佐と再会するときのコード2501を自分の車の暗証番号にしている。アニメ評論家の氷川竜介氏の指摘していることだが、バトーがこれを毎日毎晩繰り返している、ということに観客が気づくかどうかで、映画の見方が変わってくる。言ってみれば別れた彼女の携帯番号をいつまでも暗証番号に使っているようなもので、男としてよく分かるが、女性から見るとかなり引くんじゃないだろうか。

以下は私の意見。ポイントとなる少佐のセリフが2つある。
1つは、今の自分を幸福と感じるか、とバトーに問われたときの答。「懐かしい価値観ね。少なくとも、今の私に葛藤は存在しないわ。」
およそ人間であれば、葛藤が存在しないなんてことはあり得ない。人生の意味から今夜の晩飯まで、ありとあらゆることに頭を悩ませているはずだ。少佐はもはや人間ではない。バトーとは全く違う地平に立っているのである。
もう1つは、最後のセリフ。「バトー、忘れないで。あなたがネットにアクセスするとき、私はいつもあなたのそばにいる。」愛の言葉とも取れるが、ネット内でいつも一緒ということを逆に考えてみると、現世ではもう2度と会えない、という意味でもある。あまりにも残酷な言葉ではないか。
ここまで考えてくると、少佐が現れた目的についても、ある疑問が浮かぶ。はたして、少佐が救おうとしたのはバトーだったのだろうか。もしかして、人形たちの方だったのではないか。
想像に過ぎないが、この映画が繰り返し人と人形の関係を問うており、少佐がまさしく人と人形の境界に位置する存在であることを考えれば、あり得ないことではない。
押井映画の登場人物は大抵の場合狂言回しであり、情感に乏しい。「イノセンス」は、珍しく切ないラブストーリーに見えて、さらに一ひねりした押井映画だ、ということか。

神は自らに似せて人を創った。即ち、人体の理想型を目指して人形を作るのは、神を創るということである。フランケンシュタインの昔から、人造人間を創るのは、造物主願望の最たるものだった。かように罰当たりだったからこそ、フランケンシュタイン博士は呪われたわけである。そう言えば、本作の構造上、少佐はまさしくデウス・エクス・マキナとして降臨する。少佐がもはや神の領域に近いということは、この一事からもうかがえる。
この点、ちゃんと柳下毅一郎先生が指摘しておられる。さすがだ。