今更エヴァンゲリオン?て言われそうだけど、90年代に青春を過ごした身としては、この作品に触れないわけにはいかない。
謎本もネット内言説もいやと言うほど発表されたから、オリジナリティのある言説は望めないかもしれないけど、自分の頭で考えたことには違いないので。


END OF EVANGELION

いきなり結論だが、エヴァンゲリオン」のテーマは、一言で言うと「母胎回帰願望の克服」だった。
完結編である「The end of Evangelion」俗に言う「夏エヴァ」に描かれたように、作中のキーワードとして繰り返し仄めかされた人類補完計画とは、「出来損ないの群体として行き詰まった人類を強制進化させる」ことだった。その方法は、エヴァンゲリオンとロンギヌスの槍の力を使って、個人を隔てる心の壁=ATフィールドを取り払い、全てを一つにする・・・人類(使徒)の初源の姿であるリリスの卵へ回帰させ、最初からやり直しを図る、というものだった。

しかし結局、補完計画は失敗に終わる。シンジが自らの意思で、LCLに還元されることを拒否したからだ。シンジが己の姿を取り戻したこと、母そのものであるエヴァ初号機との別離を選んだことからもそれは明らかであるが、物議を醸したラストシーンをもう少し細かく観ていこう。

まず、アスカの包帯姿。これは初登場時のレイと同じである。また、アスカの腹をなめてシンジが海に目を向けたとき、海上のレイの姿を見る。シンジが目をこらすと、既にレイの姿はない。1話にも同様のシーンがあるが、これは、レイ=母の役割が、アスカに移っていることを意味すると解釈できる。

問題の、シンジがアスカの首を絞めるのは、母(への依存)を殺す象徴的な行動ではないだろうか。シンジの暴力衝動がこれまで常に初号機(=母)の力を借りて発現していたことを思い出してほしい。自らの手を汚し、その痛みを引き受けることで、シンジはようやく大人(=男)になろうとしたのである。結局(幸いにも?)殺しきれずに泣き崩れるわけだが、ここで注目したいのはアスカの手つきである。シンジの頬をなでるアスカの手の動きは、これまでにない穏やかさ、優しさにあふれて見える。愛撫と言っても差し支えないほどだ。これは母性ではなく、男女関係と解釈すべきであろう。アスカの中に、己を飲み込もうとする母性の闇を見て、シンジはそれを殺そうとする。しかし同時に、アスカは愛されるべき女でもある。それに気づいたからこそ、シンジはアスカを殺せなくなったのである。
また、シンジはこのシーンで一貫して目を見せない。一方アスカの目は、無表情に見開いたままである。このことからも、このシーンは象徴的な意味合いが強い場面と言える。
つまり、一見不条理なこのラストシーンは、「母との別れ」をさらに強調したシーンなのである。

ついでながら、アスカの手の表情の優しさからは、アスカもまた、補完され一つになった世界で、エヴァ2号機の中で何かを見たのではないか、との想像が可能だろう。