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姿 見 の 池 伝 承
鎌倉時代、現・国分寺市恋ヶ窪は宿場村でした。今も湧水を集めて野川が流れ出す窪地になっています。
かつてこの低地には池があって、宿場の遊女が朝夕に自分の姿を映して見ていたと言い、姿見の池と呼ばれました。
武将、畠山重忠は武蔵武士団の棟梁で、古来誠実な名将として賛美されてきた人です。
一方、夙妻太夫(あさづまだゆう)は恋ヶ窪の遊女で、大変美しい人だったとのことです。
彼女は武蔵国分寺近くの薬屋の娘で、立居振舞も落ち着きのある遊女でした。
重忠は本拠地が武蔵国男衾郡畠山荘(現・埼玉県深谷市)で、鎌倉との往復の際に必ずこの夙妻を訪ねました。
やがて二人の間には、遊女と客という関係を超えた深い愛情が生まれたのです。
重忠は平家を討つため西国に出陣する命令を受け、夙妻にそれを伝えました。
彼女はこれが最後になることを恐れて泣き悲しみ、一緒に連れて行って欲しいと頼みました。
しかしそれもかなわず、一人残された夙妻は、待てども待てども帰って来ない重忠の身を案じ、泣いて暮らす日々を送りました。
夙妻に熱を上げるもう一人の男が、彼女を口説こうとして執拗に迫りましたが、夙妻の重忠を思う心は動きません。
そこで一計を案じ、重忠が西国で戦死したとウソをついて諦めさせようとしました。
それを聞いた夙妻は絶え入るばかりに泣き崩れ、ある朝早く薄着をまとったままで、薄もやのかすむ姿見の池に身を投じたのです。
村人は夙妻の哀れな女心に同情して彼女を手厚く葬り、墓のわきに1本の松を植えました。
この墓印の松は西国にいる心の夫を恋うるように、西へ西へと傾いて伸びて行きました。
また、その葉は不思議なことに一葉で、切ない女心を表しているのだと村人はささやきました。
これが今でも残る一葉の松の伝説です。
その後無事に戻った重忠はことの顛末を聞いて慟哭し、亡き夙妻のために一堂を建立し、無量山道成寺と名付けました。
そして阿弥陀如来像を安置して弔ったとのことです。
一葉の松は現在三代目で、近くの東福寺に植えられています。
なお恋ヶ窪という地名は、武蔵の国府に近い窪地だということで国府ヶ窪(こうがくぼ)と呼んでいたのを畠山重忠と夙妻太夫の故事にちなんで恋ヶ窪と書き改めたのだ、とする説があるそうです。
何となく信じたい気持ちになりますね。
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参考文献・・・国分寺市の文化財 国分寺市教育委員会編
恋ヶ窪物語 鈴木 忠雄 著
所在地:東京都国分寺市西恋ヶ窪1丁目 (JR西国分寺駅下車 徒歩7分)