三多摩農地を開いた開拓の父 川崎平右衛門と伊奈半左衛門
〜うれしいじゃありませんか、先の副将軍・水戸黄門様〜
元文3,4年(1738〜9)、武蔵野諸新田の開拓地は大凶作に見舞われ、村人の中に多くの餓死者を出しました。
当時、押立村(現・府中市押立町)の名主・川崎平右衛門定孝はこの地の富裕家で、殖民興業にも有能でありました。
各村に深井戸を掘らせたり、田畑に引水のための用水路を作らせたり、徳川幕府への働きかけなどをしたのです。
延享元年(1744)、代官となり南北武蔵野諸新田開発の世話役となって大いに開発振興し、これに窮民を使役して救済事業ともしました。
各地には用水井戸などと合わせて肥料、雑穀、種芋なども与え、ようやく農民は飢えることがなくなり、新開の地は次々と増加して行きました。
寛永3年(1750)、平右衛門の後を継いだ伊奈半左衛門は、平右衛門の意図を良く受継ぎ、その事業を拡張したので、益々その開発と合わせ穀高は増加して行き、それを売却した代金を積み立て、40年後には積立金総額四千余両になったと言われています。
この繁栄はひとえに川崎・伊奈 両代官の指導によるものだとして、寛政11年(1799)83ヶ村の農民が計って謝恩の宝塔を建立し、盛大な供養を営みました。
この謝恩塔は現在、妙法寺(国分寺市北町3−1−1)に在り、市の文化財に指定されています。
黄門様、こんな代官様ばかりだったら苦労はしなかったでしょうね。
月曜日夜8時、6チャンネルを見るたびそう思います。
参考文献・・・多摩の歴史 関口雄基臣 著