長岡 鉄男 Nagaoka, Tetsuo
オーディオ評論家 (1926-2000.5.29)
市民派・人権派とか進歩的文化人と呼ばれる人たちの主張に対し、私はかなり共感はするものの、どこか、しかも決定的に違うところがあると感じている。それは、オーディオ評論家の長岡鉄男氏の文を中学生くらいから浪人時代にかけて「FMfan」誌や「stereo」誌で、また『長岡鉄男のレコード漫談』シリーズ(これは「stereo」連載を単行本化したもの)や『長岡鉄男のいい加減にします』シリーズで、よく読んでいたというのもあるのだろう。(氏の文を読んだ人がみんな私のような影響を受けるわけではないので、さらに深い理由があると思うがここではそこまでは立ち入らない。)
オーディオに関心がない人は「オーディオ評論家」という職業があることを知り驚くかもしれない。長岡氏は単独の「社会評論」の著書などを発表しているわけではないが、氏の音楽・オーディオに関する文章には、社会・文化について鋭い視点が織り込まれている。
今、手元に本がないので一字一句正確な引用はできないが、まず長岡氏の社会・文化ひいては文明に対する考えは、現実主義、「庶民的な日常生活に根ざす」という意味での保守であると言える。これは時として対立する。長岡氏はコストパフォーマンス(品物の値段を考えたときの内容・中身の価値の高さ・低さ)という視点をオーディオ製品の評価に持ち込み、氏自身、自宅では高価な製品をなるべくさけて使っていた。一方、日本中が自分のようなものの買い方(値段に見合ったなるべく安いものを選んで買うこと)をすれば経済は衰退する、ブランド信仰バンザイ、消費主義バンザイと書いている。
長岡氏はカテゴリー単位の決めつけや党派性に批判的であった。オーディオ製品でも、Aクラス動作のアンプだからよい、3ヘッドのカセットデッキだからよいということはなく、どんな方式でも良くできたものは良く、悪いものは悪い、方式や名称・看板だけで判断するのは危険であると言う。この視点は政治にも及ぶ。長岡氏は、核兵器反対運動のビラをよく見ると、アメリカの核兵器は反対、中国やソ連(当時)の核は人民を守るためと書いてあることなどを指摘していた。
共産主義国特有の個人崇拝や複数の文化圏にまたがる支配にも言及し、左翼が批判の言葉として使う「帝国主義」は共産主義国にこそ当てはまると書いていた。
平等主義を制度化することにも批判的で、これは氏自身の体験からきているのだろう。幼いころからぜんそく持ちで病弱であり、20代後半になってやっと収入を得られるようになり、コント作家を経てオーディオ評論家となり、60代になって50畳のオーディオ・ビジュアル鑑賞のための部屋を建設する。冗談半分もあるだろうが落ちこぼれ続けていると一周回って最後はトップに躍り出てしまうと言う。
また、人を殺してはいけないことを論理的に説明することはできないという意味のことも述べる。自分が殺されるのもちっとも嫌ではないという殺人犯もいるし、自分が殺されるのは嫌だが人は殺すというのも矛盾はないし、殺人を禁じていない宗教もあると書いていた。人を殺すのがむしろ人間の本能であり、昔は子どものころは理屈抜きに悪いものは悪いと教え込み本能をおさえつける教育をしていたが、戦後は子どもにも人権があることになってそれをしなくなったとも書いている。この文は少なくとも1988年には発表されていたものであり、少年犯罪をマスコミが問題として取り上げるずっと以前である(ただ、少年の殺人などの犯罪は件数としては現在はピーク時よりずっと少ない)。
また、私は長岡氏の文のおかげで詐欺や宗教に対する警戒心が強くなったとも言える。「10代前の先祖の霊が祟っています」という台詞を取り上げ、10代前の先祖は1024人いるはずと言い、墓石の向きなどで先祖が祟るというのも日本独特の陰湿な考えで、超能力や心霊現象も日本に入ってくると陰湿なものとなると書く。
長岡氏の発想の軸のひとつに、固定した枠組みにとらわれた見方が一人歩きしてしまうことに対する疑いの眼がある。私が市民派・人権派・進歩的文化人にやや疑問を持ってしまうのも、「自衛隊は憲法違反だからすぐにでも廃止しなければならない」「(人権派・革新政党などが)弱者と決めた特定のカテゴリーのひとたちは常に弱者」といった定説の結論部分だけをモットー・スローガンのように思い、その無謬性(あやまりがないこと)に対する疑いをもたないことに私は逆に抵抗をおぼえるのである。
(2001年1月3日up)