ユング心理学入門 河合 隼雄

培風館 1967年初版発行
私は1,000円で買ったが現在は1,400円くらいだと思う。もう少し手軽なユング心理学の入門書ではやはり河合氏の『コンプレックス』(岩波新書)がある。
河合 隼雄 かわい はやお:1928年生まれ。京都大学理学部数学科卒。カリフォルニア大学およびスイスのユング研究所に留学。1965年、日本人として初めてユング派心理療法家の資格を得る。京都大学教授、国際日本文化研究センター教授を経て、1995年から2001年5月まで同センター所長。1995年に紫綬褒章、2000年に文化功労者。2002年1月に文化庁長官就任が決定。霊長類学の河合雅雄・京大名誉教授は実兄。
ユング (Carl Gustav Jung ):1875‐1961心理学者・精神医学者。分析心理学(ユング心理学)の創始者。1907年〜1912年頃までフロイト(Sigmund Freud 1856‐1939 精神分析の創始者)の共同研究者であったが意見の対立から別の道を歩む。「コンプレックス」「内向・外向」「アニマ・アニムス」「普遍的無意識」などの用語はユングが使い始めたもの。

内向と外向・4つの機能
 「内向・外向」ということばは実は「社交的である・ない」という意味ではない。簡単に言えば、「内向」は「自分」に関心が強く、「外向」は世間・流行・社会通念などの「外側」に関心があるということだ。「内向」は「弱気」「消極的」とも直接の関係はない。ただ、内向型の人は基準が自分の内側にあるため、他人と新しく関係を作るときにぎこちなくなりがちで子どもの頃から周囲との壁をそれを感じ、結果として「弱気」「消極的」に見えるようになりやすい。

 ユングは人間の機能を「思考」「感情」「感覚」「直観」の4つに分類している。たとえば「感情」がもっとも優れた機能の人は「感情型」ということになる。これに「内向」「外向」がそれぞれあるのでユングによれば8タイプの人がいることになる。

 内向型の人は「基準が自分の内側にある」が、これは河合氏が挙げている内向的感情型の人の行動の例が分かりやすい。

 友人の新調の服を、すばらしい、よく似合うと皆で楽しく語っているとき、それが少しもすばらしくないことを(困ったことに、その判断は正しいときが多い)、感じてしまい、何といっていいのかわからなくなったりする。

 「内向」「外向」と「思考」「感情」「感覚」「直観」4つのタイプ論は素質的なものであり、変えることは難しく無理に逆転させたりすると著しい疲労が生じるとユングや河合氏は主張する(私の考えとしてもそう思う)。

 この本は内向的な人に肯定的に書かれているが、私は非常に若いころに読んだために人間は1人1人独自の基準を持つというのを拡大解釈し、どんな価値観を持っていてもその価値観をあれこれ言う視点・基準などあり得ないという考えを持っていた。私のこの立場は渡辺京二氏の著作がきっかけとなって大きく修正される。

2002年12月16日



 

案内 世界の文学 渡辺京二

日本エディタースクール出版部 1982年7月発行 1300円

文庫版

『娘への読書案内 : 世界文学23篇』

朝日新聞社 1989年8月発行 朝日文庫 ISBN 4-02-260564-2 480円

 『逝きし世の面影』の渡辺京二氏が若い読者のために書いた23編の文学作品の案内。あとがきにあるように『看護学生』(メヂカルフレンド社)に1978年4月から1980年3月まで連載されたもの。

 23編となっているのは『マトリョーナの家』(ソルジェニーツィン)を2回に渡って書いたため。何冊もの作品の解説に何度も出てくるテーマがある。それは近現代西欧文明というものが個人をつつみこむ大きなものを切り崩し、金銭・契約・自己主張のぶつかり合いという世界に人間が投げ出されていったという見方についてだ。このことは『マトリョーナの家』の章に多くページを割いて書かれている。

2002年12月10日



 

不平等社会日本〜さよなら総中流 佐藤 俊樹

2000年6月25日 中公新書1537 660円

佐藤 俊樹 1963年生まれ。東京大学文学部社会学科卒、東京大学社会学研究科博士課程中退。東京工業大学社会工学科助教授を経て、東京大学総合文化研究科助教授。社会学博士。専攻は比較社会学、日本社会論。(巻末より)

 日本では文系(ホワイトカラー)の管理職・専門職に就くためには親も文系管理職・専門職でないと難しくなっているという本。

 この本では職業を大きく6つに分けたデータを使っている。

 (1) ホワイトカラー雇用上層:専門職と管理職の被雇用(法人企業の役員をふくむ)。30人以上の企業と官公庁の課長級以上。30人未満の企業であっても管理的職務だけをやっていればここに入る。
 (2) ホワイトカラー雇用下層:販売職と事務職の被雇用
 (3) 自営業すべて:専門職と管理職と販売職と事務職と熟練職と半熟練職と非熟練職の自営(家族従業をふくむ)
 (4) ブルーカラー雇用上層:熟練職の被雇用
 (5) ブルーカラー雇用下層:半熟練職と非熟練職の被雇用
 (6) 農業:農林水産業


 文系管理職・専門職に親がそうだった人とそうでない人の間に「なりやすさ」に差があるかどうかは「オッズ比」を使ってみる。

 つまり、親が文系管理職・専門職で本人が文系管理職・専門職になった人数とならなかった人数の比率と親が文系管理職・専門職ではない人の中で本人が文系管理職・専門職になった人数とならなかった人数の比率の比を見る。

 A=親が文系管理職・専門職で本人が文系管理職・専門職の人数÷親が文系管理職・専門職で本人が文系管理職・専門職ではない人数
 B=親が文系管理職・専門職ではなく本人が文系管理職・専門職の人数÷親が文系管理職・専門職ではなく本人が文系管理職・専門職ではない人数
として
文系管理職・専門職のオッズ比=A÷B

 差がない場合は当然オッズ比は1になる。

 本人の生年で1896〜1915年(1955年調査)「明治のしっぽ」、1906〜1925年(1965年調査)「大正世代」、1916〜1935年(1975年調査)「戦中派」、1926〜1945年(1985年調査)「昭和ヒトケタ前後」、1936〜1955年(1995年調査)「団塊の世代」と5つの世代の40歳時の職と父の職から出した文系管理職・専門職のオッズ比を見ると、「明治のしっぽ」では9.4と高くそれから「大正世代」(7.8)「戦中派」(5.6)「昭和ヒトケタ前後」(4.2)としだいに下がっていたのだが、「団塊の世代」で7.9と「大正世代」に近い水準となっているのである(文中にない数字はグラフからの目視)。

2002年8月28日



 

宿題ひきうけ株式会社 古田 足日

『宿題ひきうけ株式会社』古田 足日 1966年刊行、1996年、本作品中の授業の場面で出てくる宇野浩二『春をつげる鳥』(1926年発表)がアイヌ民族に対する認識不足の部分があることの指摘を受け、作者の創作による物語に書き換えられた新版が刊行されている。新版 理論社フォア文庫 631円(フォア文庫の対象年齢表示では小学校中・高学年向きとなっている)

著者略歴 ふるた たるひ 1927年11月29日、愛媛県に生まれる。早大童話会在籍中、鳥越信、神宮輝夫らと〈少年文学宣言〉を発表。1954年、鳥越、山中恒らと同人誌「小さい仲間」創刊。1959年、『現代児童文学論』で児童文学者協会新人賞を受け、以後、評論・創作に活躍する。創作に『大きい1年生と小さな2年生』『宿題ひきうけ株式会社』『おしいれのぼうけん』、評論に『児童文学の旗』『児童文学への視点』、講演記録『子どもを見る目を問い直す』など。


  子どものときに読んだ本が人生・社会に対する考え方に強く影響していることはよくある。児童文学には社会・人間にかかわる、しかも大人も容易に答えられない課題がしばしば現れる。

  私は子どものころ、本作品の旧版を読んだ。小学校の5年生がクラスメートの宿題を10円から20円で代わりに解く会社を作るという物語だ(1966年刊行であることに注意)。全部で3章から構成されているが、この“宿題ひきうけ株式会社”そのものは第1章の終わりで担任教師によって解散させられる。

  夢のような楽しい童話ではない。ちょっと引用してみよう。「宿題ひきうけ株式会社」が担任の石川先生にばれたときの場面だ。ヨシダ君はいちばん「会社」を利用してくれたお客さんで新聞少年(主人公たちと同じクラス、小学5年生)であり、タケシ君は「会社」の社長である。

「(前略)タケシ君たちはぼくんちの弟や、ぼくんちのアパートの子どもたちに宿題おしえてくれたんです。おかげでたすかったんだ。ぼくの分もやってもらったけどね」
「やってもらったらきみ自身こまることになるんだぞ」
と、先生はヨシダ君をにらんだ。
「平気です。ぼくんちのアパートのおとななんか、クウェートがどこにあって、日本が石油をどこから輸入しているかなんてだれも知りゃしない。でも、なんとかなってるんです。ぼくは勉強するより、ソロバンやる方がいいと思います」

  ヨシダ君はソロバン日本一を目指してソロバンを習っている。アキコ(「会社」の解答作成担当)の兄がソロバンが得意なためヤマト電気で給与計算を担当し大卒より多い給料をもらっていることから自分もそれを目指しているのだ(前にも書いたがこの本は1966年刊行である)。ところが第2章でヤマト電気に「電子計算機」が入ったためアキコの兄は販売の方にまわされることになった。それを聞かされたヨシダ君は自分の夢が破れ呆然とする。

  クラスのボス(いじめっ子という方が分かりやすいが)、コウヘイをタケシたちが追いつめる場面がある(このときは彼らはもう6年生だ)。

  ある日のこと、事件がおこった。コウヘイとノブオが、校舎のうらでシバタ君をおどかしたのだ。
「あした、おまえ、50円持ってこい。持ってこないと、おまえのかばん、どぶのなかにほうりこんでやる」
「いやだ」
  シバタ君はまっさおになって答えた。
「いやか。いやなら」
  コウヘイはシバタ君の胸をつかんでしめあげた。そこへアキコが通りかかった。
「よしてよ。コウヘイさん」
  そういったアキコのほおをノブオがびしりとぶった。

  このあと、シバタ君とアキコを助けようと割って入ったヨシヒロがコウヘイ、ノブオに殴られ、臨時学級会でコウヘイ、ノブオが謝るまで口をきかないということに決まり(アキコ、ヨシヒロはともに「会社」のもと社員。このときはすでに会社は解散している)、新聞部でもボス追放のキャンペーンを行なう。元社員の多くはこのころは新聞部に入っている。

  コウヘイ、ノブオが子どもたちの輪に囲まれる場面でノブオは謝るが、コウヘイは
「じゃ、優等賞をもらった連中にもあやまらせろ。あの連中も人をいじめたんだ」
と言う。タケシたちは新聞部でその言葉の意味を考える。コウヘイは自分はあまり成績がよくなく、いつも家でしかられる一方、優等生が優等賞をもらうのが気に入らず、腕力の方の優等生になろうとしたのではと考える。新聞部のその話し合いでも、できる子が授業中すいすい手を挙げるのを見てこのやろうと思うことがあると言う部員もいた。

  これだけだったら子ども向けの道徳教育がかった童話の範疇かもしれない。ところが、話はそこで終わらない。コウヘイの発言を聞いたヨシダ君はコウヘイを学校の裏に呼び出し、アキコやヨシヒロとともに話をする。ヨシダ君はこう言う。

「おもしろくないというのはだな、きょう、きみは優等生にいじめられていると、いっただろ」
「いったとも、ほんとうのことだ」
  コウヘイはヨシダ君がアキコという優等生のかたをもって、自分にいいがかりをつけてきたのだと思った。ところが、ヨシダ君はいった。
「きみはできる子と、できない子のことしか考えなかったな。おれやシバタ君のことを、かんじょうにいれなかったな」
「きみや、シバタ君のことだって?」
「そうだ。はじめから高校になんか行けないと、きまっている連中のことだ。金のない連中のことだよ」
  優等生にいじめられているという、コウヘイの言い方でいけば、金のない連中は金のある連中にいじめられている、とヨシダ君はいいたいのだ。
「ぜいたくなんだ、きみは、優等生がどうこうなんていっていて。おれみたいに金もなくて、勉強もできないやつのことを、どう思うんだ」

2001年7月22日



 

ヤブキカケルシリーズ 笠井 潔

『バイバイ、エンジェル』 1979年 創元推理文庫 640円
『サマー・アポカリプス』 1981年 創元推理文庫 860円
『薔薇の女』 1983年 創元推理文庫 620円
『哲学者の密室』 1992年 創元推理文庫 1600円
『オイディプス症候群』 光文社 3200円
年号は初版本刊行年 価格は税抜き価格

笠井 潔 かさい きよし 1948年11月18日生まれ。1974年渡仏し1976年帰国。評論家としても活躍し『テロルの現象学』などを著す。

 1970年代のフランスを舞台とし、日本人青年ヤブキカケル(矢吹駆)が「現象学的本質直観」を用いて殺人事件の謎を解く推理小説である(『オイディプス症候群』はエーゲ海の島が舞台)。物語はナディア・モガールによって語られる節と客観的な視点からの節によって構成される。
 笠井潔氏が「連合赤軍事件」等を青年期に目の当たりにした世代であるからであろう、「テロリズム」「民族主義」「全体主義」を思想的に背負った人物が登場し、ストーリーの軸となっていることがこのシリーズの独自性となっている。
 『バイバイ、エンジェル』ではカケルがその殺人のトリックを解いたのみならず、犯行の動機を哲学的・政治思想的に批判し、犯人を心理的・実存水準で追いつめる。『サマー・アポカリプス』ではカケルは殺人事件そのものよりも登場人物のひとりのシモーヌ・ヴェーユを思い起こさせる女性との神秘学的・宗教的な対決の方に関心を持っているのが面白い。『薔薇の女』は他の作品にくらべインパクトに欠ける。『オイディプス症候群』ではエーゲ海のミノタウロス島ダイダロス館に集まった10人の男女が次々に殺されていく。ミシェル・フーコーをモデルにしたと思われる哲学者が登場し、カケルとナディアを交えて自己・他者、男女、母性・父性について議論が交わされる。
 1作品だけをということであれば『哲学者の密室』を薦めたい。ユダヤ人富豪宅の密室で老人の死体が発見されることから事件は始まるが、物語のもうひとつの流れはハルバッハの「死の哲学」である。哲学者ハイデガーをモデルにしたハルバッハ、レヴィナスをモデルにしたガドナスが登場し(レヴィナスはハイデガーの弟子だが、ドイツ人ハイデガーはナチスに協力したとされ、レヴィナスはユダヤ人であり、収容所経験がある。本作品のガドナスはハルバッハと師と弟子の関係とは言えないと言っているが、ほかの点はほぼ同じ)また作品の中編で舞台は30年遡り、ナチスのコフカ収容所が描かれる。『哲学者の密室』が秀逸な作品である点の1つは殺人事件とカケル、ナディア、ガドナスとの哲学的議論の内容とが密接に関係していることである。

2001年2月25日

2003年6月19日加筆




逝きし世の面影 〈日本近代素描 I 〉 渡辺 京二
葦書房 1998年9月20日初版発行 4,200円 487p 「週刊 エコノミスト」(毎日新聞社)に1995年から翌年にかけて連載されたものに加筆。
210.6W462y(私が借りた図書館での番号)
渡辺 京二 わたなべ きょうじ:1930年生まれ。著書に『北一輝』(朝日新聞社)『渡辺京二評論集成I〜IV』(葦書房)など。
 江戸時代の庶民が年貢と貧困に苦しみ、悲惨な生活をおくっていたという話はウソだと初めて聞いたのはいつだっただろうか。また、私は幼いころ、昔は便利なものはなかっただろうと思っていたが、その生活に対し、気楽で気ままなイメージを持っていた。
 渡辺京二氏は本書で、幕末から明治初期にかけて日本を訪れた外国人の手記をもとに、「幕藩体制下の悲惨な民衆生活」というイメージをくつがえしてみせる。彼らは、日本の民衆が陽気で、幸福で、その生活、人生に満足していたと書き記している。
 本書でとくに興味深いのは当時の庶民の労働についてであり、勤勉でありながら、そのリズム、休息のとり方はまったく気ままなものだった。1877年(明治10年)に日本を訪れ、1879年まで滞在し、1882年に再来日した生物学者モースは運河の入り口で杭打ちの現場を見てこう書く。
「変な単調な歌が唄われ、一節の終りに揃って縄を引き、そこで突然縄をゆるめるので、錘(おもり)はドサンと音をさせて墜(お)ちる。すこしも錘をあげる努力をしないで歌を唄うのは、まことにばからしい時間の浪費であるように思われた。時間の十分の九は歌を唄うのに費やされるのであった」。(本書196ページ)
 今の眼から見れば、読んでいて笑いがこみ上げるほどに能率・合理化のかけらもないこの労働のかたちは、労働を苦役とせずに、自発的な心と体の活動とするためのものだった。自由気ままに働き、休む労働のスタイルは当時の日本だけでなく、19世紀初頭のヨーロッパでも見られ、「前近代社会」では当たり前だった。渡辺氏はこの苦役とは無縁な、自発的労働の姿を、イヴァン・イリイチ(Ivan Illich 1926-2002 思想家・社会学者)のいう「民衆のコンヴィヴィアルな共生の表現」だと述べる。ここで労働が苦役ではないというのは重労働ではないということはでなく、時間に悠長でリズム・ペースがまったく労働者自身にまかされていることを意味している。
 渡辺氏はまた、日本の知識人には近代以前の日本を美化することを反動的・復古的だとして避ける伝統があったことを指摘し、その視点のかたよりの検討を第1章で行なっている。日本を訪れた異邦人たちは自分たちの文明の先進性にゆるぎない確信を持っていたけれども、当時の日本社会が、その西欧文明とはまったく異質な、物質的な高い水準を持たずに、人々の生活、そして人生がひとつの意味のある完結を持っている段階に到達していることにおどろきを感じていた。彼らはその時代の日本を賛美しただけでなく、嫌悪や違和感も感じていたが、「錯覚ですら何かについての錯覚であ」り(41ページ)、異邦人たちは在りもしないものを見たわけではなく、「彼らによって当時の日本が、小さいとか、かわいらしいとか、夢のようなとか、おとぎ話のようなといった形容が冠されていることの意味を、軽々しい反撥(はんぱつ)はぬきにして、私たちはもう少し沈思してみてよいのではなかろうか」(42ページ)と渡辺氏は問いかけている。

2001年1月8日



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