「右」と「左」とは何か?


 この文章は政治思想・経済思想・社会思想についての超初心者を対象としています。


 右翼、左翼といったものがある。一般の人がイメージするのは、右翼だと黒い街宣車で大きな音で軍歌などを流して走る人たちであり、左翼とはヘルメットに覆面で〇〇空港建設反対!などと叫んでいる人たちであろう。しかしそういった特定の団体に属さないで「右」または「左」の思想を持ち発言している人もいる。何をもって「右」「左」とされているのだろうか。この文では日本の「右」「左」を中心に書くことにする。

 基本的には「右」に現実主義・性悪説をとる者が多く、「左」に理想主義・性善説をとる者が多い。しかし、これは一様ではない。「右」は戦後日本の民主主義という「現実」に対し批判的で、「左」は個人については性善説をとるが国家権力に対しては「悪」のレッテルを貼る。

 まず、天皇制を支持するかしないかである。支持するのが「右」で支持しないのが「左」である。しかし個人としては天皇制を支持しても他人に強制はしないと言う人もいる。天皇制を支持せず、反対の人でも皇族は国民の血税で暮らしている犯罪者に等しい存在で、皇族を揶揄・侮蔑する発言をしても構わないと言う人もいれば、天皇制は皇族の人権を認めない制度、つまり生まれながらにして基本的人権を制限される人々を生み出し続ける制度であるから反対と言う人もいる。同じ反対でもこれではずいぶん違う。ちなみに谷沢栄一によれば「天皇制」という言葉自体が左翼用語だそうだ。日の丸・君が代についてはもちろん反対するのが「左」で賛成・強制側が「右」である。

 次は国家の経済体制についてだが、社会主義・社会民主主義寄りの考えを持つのが「左」で、反社会主義で市場経済原理主義に立つのが「右」である。しかし日本に限った場合、「右」でも日本らしさは残した方がいいと言う人もいる。日本らしさとは年功序列制などの日本的経営のことである。一方「右」の人でもアメリカのように優秀な個人は年齢に関係なく抜擢するほうが良いと言う人もいる。このような主張をする人は能力の有る無しによって貧富の差が出ても仕方ないと言う人が多い。が、貧富の差が出ても大金持ちになるほど多く税金を払うので政府の社会保障にまわせる予算が多くなるので経済的に自由競争をさせた方が結果として低所得者への社会保障も手厚くなると言う人もいる。ところで社会主義とは生産手段の公有を原則とし貧富の差を無くそうとする思想である。社会民主主義とは社会主義までいかないが金持ちに高い所得税率を課したり、社会保障を充実させ、労働者の権利擁護を徹底することにより貧富の差を縮めようとする思想である。

 死刑制度については、存続・賛成する立場が「右」で、廃止・反対する立場が「左」である。

 軍事・安全保障については日本国憲法第9条を文言通りに読み、自衛隊は戦力で違憲だから廃絶すべきで日米安全保障条約も破棄すべきと主張するのが「左」であり、憲法9条を改正して自衛隊を正式な軍隊として認めようとするのが「右」である。ただし社会主義者や社会民主主義者が非武装を主張するのは日本特有のことであり、社会主義国、社会民主主義政権の国は通常、軍隊を保有している。

 戦後日本の民主主義社会を肯定するのが「左」で批判するのが「右」である。「左」の人には現在の日本社会で自分の主義主張に都合の悪いものがあると「戦前からの残存物」だと言う人がいる。

 子どもには大人と同様の権利があると主張するのが「左」であり、子どもは大人と同じ義務を背負っていないのだから大人と同じ権利はないと言うのが「右」である。

 男女平等を現在、堂々と否定する人は少ないが、男女それぞれに役割や特性の差があり、男女は別ものと考えるのが「右」であり、男女別の役割を否定するのが「左」である。「左」の中でも急進派は生殖機能以外のすべての男女の違いを否定しようとしている。

 アジア太平洋戦争を肯定的にとらえるのが「右」であり、アジア諸国に日本が侵略したことを重く見て「間違った戦争」であったとするのが「左」である。さらに昭和天皇の戦争責任を問うのが「左」である。

 国家権力を嫌うのが「左」の属性のひとつだが、同時に社会主義者・社会民主主義者であることの間に矛盾が生じる。社会主義国や社会民主主義政権の国は必然的に強い公的強制力を必要とするからである。

 愛国心を強調したり、全国民が愛国心を持つべきだと言うのが「右」であり、「左」は愛国心に対し否定的である。しかし、自分の国が植民地化されていたり軍事占領されている場合は、自分の国の独立を目指したり、愛国心・民族性を重視するのが「左」と呼ばれることがある。

 日本の「左」の多くは日本嫌いで、「左」のほとんど全部がアメリカ嫌いである。そして「左」は中国、韓国、北朝鮮を批判しない。「右」にもアメリカ嫌いはいる。

 個人の不幸をその人の自己責任だと言うのが「右」で、社会システムに原因があるとするのが「左」である。しかしこれも一様ではなく「左」にも個人の自己責任を重視する人たちもいる。

 日本国憲法は第21条で一切の表現の自由を保障しているが、「左」には差別表現を否定・糾弾する人が多い。

 「左」は大国と小国が対立あるいは戦争状態にある場合、小国の味方をすることが多い。基本的に「左」の人は少数民族、女性、子ども、老人など「左」の人が「弱者」のラベルを貼った人々の側に立って発言することが多い。精神分析が「左」の人の間で人気がなく批判されることも多いのは、精神分析が精神病、人格障害、神経症の原因は生まれつきの素質に加え0〜5歳くらいまでの母子関係にあるとしているのが母としての女性に子どもが精神病、人格障害、神経症になった原因があると主張しているように聞こえ、それが気に入らないのであろう。また、「弱者」のラベルが無いただのビンボー人にあまり眼を向けないのも「左」の人が偏っている一例である。昔は社会主義思想が「左」の人々を覆っており、資本家対一般労働者の関係で「左」の人は一般労働者に共感的で擁護的であったが現在は労働組合系の人々を除いて、「左」の人の低所得者への関心が昔よりは薄れている。

 以上いろいろと左右の違いを述べてきたが.1人の人間が一貫して上の左右の区別に当てはまるわけではない。言い方を変えると1人の人間の意見があるテーマでは「左」寄りだったり、別のテーマでは「右」寄りだったりする。


2005年12月9日



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