昨日の本棚 2002

〈今週の本〉 といったかたちでこれまで折にふれ紹介してきた本をまとめてみた。「書評」 というような大層なものでは勿論なく、単なる紹介やメモのようなものがほとんど。とくにそのとき読んでいた本、というわけでもない。むしろ何年も (何十年も) 前に読んだ本や、編集中の本に関連して思いついたものを取り上げたりと、選択はかなりいきあたりばったりである。ご覧のとおり、新刊紹介の役はほとんど果たしていない
アイルズ 『被告の女性に関しては』
カーシュ 『壜の中の手記』
ゴールディング 『ピンチャー・マーティン』

ゴールドマン 『プリンセス・ブライド』
ドンデ 『タチ――「ぼくの伯父さん」』
『ボルヘス推理小説書評集』

ミッチェル 『ソルトマーシュの殺人』
ルキアノス 『本当の話』
Jones & Newman (ed)
   《Horror 100 Best Books》
朝倉無声 『見世物研究』
新保博久・山前譲編
  『幻影の蔵 江戸川乱歩探偵小説蔵書目録』

千街晶之 『怪奇幻想ミステリ150選』
高山宏 『奇想天外・英文学講義』
高山宏 『表象の芸術工学』
東雅夫 『ホラー小説時評 1990-2001』

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Stephen Jones
& Kim Newman (ed) 《Horror 100 Best Books》

Carroll & Graf 【amazon】

 H・R・F・キーティングの 『海外ミステリ名作100選』 (早川書房) は、ポーからP・D・ジェイムズまで、ミステリの歴史を100冊の名作でたどりながら、キーティング自身の好みや個性も反映された有益にして楽しい読物だが、この 《ホラー名作100選》 も、それに劣らぬ、あるいはそれ以上の面白さに満ちた名作ガイドである。

 「恐怖は人類の最も古い感情である」 というラヴクラフトの名言にあるように、怪奇小説/ホラーの歴史は、ミステリよりもさらに数世紀をさかのぼる。古典から現代まで、100冊の名作をとりあげた本書は、『フォースタス博士』 『マクベス』 といったエリザベス朝演劇から始まって、恐怖の文学が定式化されたゴシック小説、ヴィクトリアン・スリラーの系譜をたどり、マッケン、M・R・ジェイムズ、ブラックウッド、ラヴクラフトら、20世紀初頭の巨匠たちを取り上げ、ブロックやディックの新感覚の恐怖小説、『エクソシスト』 やS・キング以降のモダンホラー黄金時代を追跡し、バーカー、マキャモン、R・キャンベルら、現代の巨匠たちで巻を閉じる。(全タイトル100冊の内容はこちらで)

 各項目の執筆陣がまた豪華である。『小人たちがこわいので』 のジョン・ブラックバーンが 『マクベス』 を論じていたかと思えば、コリン・ウィルスンが 『ドラキュラ』 の不思議な魅力を考察し、ピーター・ストラウブは盟友スティーヴン・キングの 『シャイニング』 を、そのキングは 『シャイニング』 にも通じる 〈憑かれた家〉 テーマのマラスコ 『家』 を取り上げている。SF/ミステリ界の曲者ジョン・スラデックは 『ホフマン選集』 という意外な (?) 選択で、〈危険なヴィジョン〉 のハーラン・エリスンは 《ウィアード・テールズ》 派でSFホラーの先駆者C・A・スミスの短篇集を選び、クライヴ・バーカーは 〈悪魔との契約〉 テーマの古典、マーロウ 『フォースタス博士』 を取り上げる、といった具合。リチャード・クリスチャン・マシスンが父親の 『地球最後の男』 を論じる、という粋な組み合わせも。

 そうかと思うと、ポーのホーソーン 『トワイス・トールズ・テールズ』 評や、M・R・ジェイムズのレ・ファニュ 『アンクル・サイラス』 評など、歴史的なエッセイが収録されていたりと、編集上の工夫も凝らされている。ピーター・へイニング、ジャック・サリヴァン、マイク・アシュリー、ヒュー・ラムといった評論家・アンソロジストの大物や新鋭も、もちろん多数名を連ねている。100人で100冊、まさに現在のホラー・シーンを支える人材を総結集した企画といえるだろう。

 各項目は、短い作家紹介のあとに、執筆者による3〜4頁のエッセイが続く。羅列的・情報中心の単なるガイドブックではなく、ホラー・エッセイのアンソロジーとしても読めるところが、この本の大きな特色である。本書の読者はまた、シェイクスピアからピーター・アクロイドまで、〈恐怖〉 の主題が、文学史を通して伏流のように受け継がれてきたことを知ることになるだろう。

 編者はアンソロジストのスティーヴン・ジョーンズと、映画研究家で 『ドラキュラ紀元』 ではディープなホラー・マニアぶりを披露したキム・ニューマン。1988年初版、改訂版1998年刊行、ブラム・ストーカー賞(評論部門)に輝いた名著である。(2002.10.19)

『幻影の蔵 江戸川乱歩探偵小説蔵書目録』 新保博久・山前譲編
東京書籍 【amazon】

 10年程前から新保・山前両氏が毎週、池袋の平井邸に通って、乱歩蔵書の目録をコツコツ作成している話はかねてから聞いていたが、その成果がついに公開されることになった。本体の蔵書目録に加え、蔵の内部の写真や蔵書の書影をおさめた32頁にもおよぶカラー口絵、新保・山前両氏に装丁も手がけた喜国雅彦氏をまじえた鼎談、エッセイなどが1冊にまとめられている。そして蔵書データと書庫探索写真集をおさめたCD-ROMが1枚。

 294頁の蔵書目録のうち、197頁が和書、残り97頁が洋書である。書名や発行年のデータの他に、乱歩の書き込みなどの記事も収載されていて、「品古風なれど考えは深し。文学よろしくロマンチック」 (『死の殻』 原書)、「サスペンス満点、解決はあっけないが不可能性がこんなに強いのだから恕すべし」 (『火刑法廷』 原書) など、感想メモをみていくだけで楽しくなってくる。

 目録はあらためてじっくり読むことにして、CD-ROMを覗いてみる。蔵書 (ここには探偵小説以外の本も) データベースが検索に便利なのはいうまでもないが、なんといっても特筆すべきは 〈幻影の蔵〉 と題された書庫写真集、画面をクリックしていくと乱歩邸の書庫見学をヴァーチャル体験できるようになっている。棚のクローズアップの写真も多く、実際にどんな本がそこに並んでいるか目で確かめることができる。数はそれほど多くないが、何冊かは棚から引っ張り出して書影を見ることができるようにもなっている。要所要所に山前・新保氏の掛け合い的な 「解説」 ガイド付き。

 クリックによる移動がちょっとまだるっこしいのと、自分がいまどこにいるのかわからなくなってしまいがちな点、それからもっと沢山の書影が見られたら、とか、不満もないではないのだが、まずは洋書の棚をなめるように見て、戦前作家の貴重なコレクションにため息をつき、2階へのぼって自著を年代別におさめた箱を順番にあけてみたり、戸棚の中の映写機をクリックして乱歩が諏訪湖畔に正史を訪ねた折の8ミリ映像を観たり、おや、こんなところに編者の姿が、と笑ったりしているうちに、時間がすぎるのを忘れてしまう。いつのまにかもう2時をまわった。このまま見ていると夜が明けてしまう。後日再訪することにして 〈幻影の蔵〉 をあとにしてきたのだが、この目録とCD-ROMをあわせて、まるで乱歩の頭の中――ホームズのいう 「頭脳という屋根裏部屋」 を覗かせてもらったような気分になれる。今夜もまた、ふらふらと蔵の扉を開けてしまいそうだ。 (2002.10.5)


ルキアノス 『本当の話』 ちくま文庫

 〈真実の話〉 ってやつほど始末の悪いものはない。大事件が起きる、偉い人が死ぬ、芸能人が離婚する、必ずそのあとには、〈××の真実〉 という証言なり記事なり自伝なり物語なりが雨後の筍のごとく、あるいは水桶のボウフラのごとく湧いて出る。〈真実〉 というからにはこれは本当の話だろうと思っていると、それを真っ向から否定する 〈真実の話〉 がいきなり現れたりするから当てにならない。

 というわけで 『本当の話』 である。紀元2世紀、帝政ローマ期の作家が著した 〈真実の物語〉。冒頭、当時流行の冒険譚が、真実の話を謳いながら実は嘘八百の実態を揶揄しつつ、これから自分が物語る 〈本当の話〉 は、最初から最後まで作りものだから、ゆめゆめ信じたりはされぬように、という前書きからして人を食っている。そして始まるのはこんな話。

 とにかく新しいもの、珍しいものを見たい、という 「私」 は、船を仕立ててヘラクレスの柱 (ジブラルタル海峡) を抜けて大洋の涯へと向かう。やがて航海記の定法どおり、大嵐に遭ったり、漂流したり、不思議な島にたどり着いたりしたあげく、大竜巻で天空へと飛ばされ、7日7晩の宇宙漂流の果てに月世界に到着する。おりしも月王国は太陽国と戦争中、主人公一行は彼らの奇妙な戦闘方法や人々の風俗を見物して地球に帰って来るが、たちまち巨大な鯨に飲み込まれてしまい、するとそこにもまた別世界が……といった具合に、次から次へととうてい信じがたい 〈本当の話〉 が繰り広げられる。カーシュ 『壜の中の手記』 に収録された、「黄金の河」 「破滅の種子」 「ブライトンの怪物」 など、とんでもない話をヌケヌケと語るその語り口で思い出したのが、この 『本当の話』 だった。

 ジャンルとしては架空旅行記ということになるのだろうが、こういう宇宙旅行の話がなにも近代のSFに始まるものではないことを、ルキアノス、シラノ・ド・ベルジュラック、ウィルキンズ、ケプラー、ヴォルテールなど、豊富な実例で教えてくれるのがM・H・ニコルソンの名著 『月世界への旅』 (国書刊行会)。オールディスのSF史 『十億年の宴』 (東京創元社) の重要なネタ本のひとつでもある。 (2002.9.24)


高山宏 『表象の芸術工学』 工作舎 【amazon】

 「高山宏は難解だ」 という評がときどき見受けられる。まったくの妄説である。現在、視覚文化史を論じる人で、高山宏ほど明快な書き手はむしろ珍しいのではないか。「わかりやすすぎる」 という批判はありえても、「難解」 というのは単なる誤解か、読む側にちょっとばかり基本的な教養、あるいは知的好奇心が足りないだけの話だと思う。

 この本は、2000年に神戸芸術工科大学で1年間行なわれた 〈デザイン〉 をめぐる講義をまとめたもので、いつもにもまして 「わかりやすい」。系列的には全篇語り下ろしの 『奇想天外・英文学講義』 (講談社) に近い本。のっけから 〈フィジーの人魚〉 の奇怪な図版でこの講義は始まる。19世紀半ばに欧米で大評判をとった人魚の剥製、実はこれ、オランダ商人の発注で日本の職人が猿と魚を組み合わせて作ったもの。そこからオランダと日本の意外な関係、美術館に納まるようなファイン・アートだけでは見えてこない見世物美術の広大な世界が姿をあらわしはじめる。以下、英国庭園や探偵小説、辞書の歴史、あるいは山の見方、あるいは観相学という奇態な学問をめぐって、話はとめどなく広がっていく。

 一見、ばらばらに見えるものの間に、なんらかの 〈つながり〉 を発見して、これを結びつけていく。ばらばらになった世界をそうした、いわば魔術的結合によってもう一度統合したい、という強い欲求がすなわちマニエリスムだ、と高山宏は云う。そして、その高山宏自身、ばらばらの知識、ばらばらの学問を必死でつなぎ合わせようとしている現代のマニエリストなのである。(ひたすら自分の砦のみを守ることに腐心している研究者たちへの苛立ちは、それゆえに強烈だ)

 この学生に向けて語られた講義録は、いままでの著作を、さらに平易な言葉で 「おさらい」 してくれる。「講座は高座だ」 と云い切る自称 〈知の見世物師〉、高山宏入門書として恰好の1冊だろう (愛読者には、もちろん再入門書として)。ちなみに、講義テープをもとに起こしたものなので、文体的にはいつもの高山節とはちょっと違う。そのへん、高山ファンには少々物足りない面もあるかもしれないが、アクの強さが薄れたぶん、初めての人には入りやすいかも。 (2002.9.9)


『ボルヘス推理小説書評集』 私家版

りえぞんさん翻訳・作成の私家版 『ボルヘス推理小説書評集』 は、1930年代にアルゼンチンの高級週刊誌にボルヘスが寄稿していた書評から、推理小説書評を抜粋して訳出したもの。ボルヘスの探偵小説好きはつとに有名だが (ビオイ=カサーレスと共にアンソロジーも編んでいる)、これを読むと、ブレイク 『野獣死すべし』 を絶賛し、イネス 『ハムレット復讐せよ』 に感嘆、アンソロジストとしてのセイヤーズは評価するが小説はこきおろし、ミルワード・ケネディやリチャード・ハルに夢中になり、フィルポッツの小説技倆を認め、カー 『夜歩く』 を堪能し、と要するに立派な探偵小説マニアだったことがよくわかる。

 とくに興味深いのはS・S・ヴァン・ダインを 「拙劣」 と退けながら、エラリー・クイーンのかなり熱心な読者だったことで、しかも 『エジプト十字架』 『オランダ靴』 『ギリシア棺』 『シャム双子』 などを最高傑作としているのだから、いたって正統的なパズラー・ファンである。『悪魔の報酬』 に厳しい評を下し、『ハートの4』 には注文をつけながらも、「どの一頁も私を退屈させなかった」 というのも微笑ましい。いずれも短い書評で、軽く書かれたものにはちがいないが、黄金期の探偵小説ファンには嬉しい贈物だろう。

 付録として、初期にはボルヘスも編集に携わったアルゼンチンのミステリ叢書、〈第七圏〉 (1945年発刊) の205番までの収録作品リストが掲載されている。これがまた、カー、クイーンはむろんのこと、バークリー、ケネディ、クリスピン、イネス、ロラック、クエンティン、A・ギルバート、ブレイク、フィルポッツ、ウィッティング、ヘアー、ハル、ウォルポール、ミラー、テイ、キャスパリ、バウチャーなんて、書き写していくだけでも楽しい名前がずらりと並んでいる。(グレゴリ―・トゥリー=J・F・バーディンや、ノーマン・ベロウの名前を見つけてニヤリ、なんて楽しみも) (2002.8.22)


東雅夫 『ホラー小説時評 1990-2001』 双葉社 【amazon】

 10年って短いようで長い。この本の最初の頁では、日影丈吉 (1991没) の編んだ 『フランス怪談集』 (河出文庫) が取り上げられている。クーンツがさかんに翻訳され、綾辻行人 『殺人鬼』 が出て、キングは相変らず人気作家で、いまから12年前、1990年はそういう年だった。

 翌91年には鳴り物入りでマキャモンが紹介され、〈日本幻想文学集成〉 が始まり、一方でまだ元気だった 《マリ・クレール》 がゴシックの特集を組んだりしている (定着はしなかったが「ニューゴシック」 なんてキャッチが出ていた頃だ)。年末には待望久しいキングの超大作 『IT』 (『ザ・スタンド』 はまだまだ先の話)。 92年はモダンホラーのアンソロジーが目立ち、古典では南條竹則編 『怪談の悦び』。93年にはアン・ライスの大河小説群の翻訳ラッシュが始まり、角川ホラー文庫が創刊、ストラウブ 『ココ』 が話題を呼び、坂東眞砂子が 『死国』 『狗神』 で鮮烈デビュー、中島らも 『ガダラの豚』 の年でもある。西崎憲編 『怪奇小説の世紀』 もこの年の本。

 94年はキングの評論 『死の舞踏』 に始まり、ストラウブの大作 『ゴースト・ストーリー』、F・ポール・ウィルスン 『ナイトワールド』 が続き、第1回日本ホラー小説大賞が発表され (但し大賞受賞作なし)、学研ホラーノベルズが創刊。小野不由美 『東亰異聞』、恩田陸 『球形の季節』、井上雅彦 『異形博覧会』 が注目を集める。年末には京極夏彦も登場している。

 この93・94年頃から日本のホラー小説シーンは、はっきりと新しい段階に入ったように思える。翌95年には、瀬名秀明 『パラサイト・イヴ』、鈴木光司 『らせん』 が大ベストセラーを記録し、ホラー市場はいままで経験したことのない多数の読者と遭遇する。身も蓋もない云い方をすれば、ホラーは初めて 「商売」 になったのだ。新しい才能の発掘、他ジャンルからの参入、中堅作家の復活と、ホラーの書き手は一挙に増え、コアなジャンル作家がメジャーな舞台と読者を獲得する一方で、必然的にジャンルの拡散も進行していく。(もちろん、そうした動向とはほとんど無縁なところで、古典の翻訳も地道に続けられているし、ブームとは関係なく優れた作品も刊行されているのだが)

 これは12年間にわたる日本ホラー小説シーンの貴重な定点観測記録である。ふりかえれば1990年ははるか昔のようだ。この間にずいぶんいろいろなことがあり、いろいろな本が出たのだなあ、と感慨を新たにする。ただ、これは面白かった、あれは詰まらないというだけなら誰でも出来る。その作家や作品のジャンルにおける位置づけや歴史的な視点をつねに考える評者の姿勢が、この本を一本筋の通った読みごたえのあるものにしている。 (2002.8.16)


グラディス・ミッチェル 『ソルトマーシュの殺人』 国書刊行会  【amazon】

 「1930年代は生贄として奇人変人を求め (その結果、第2次世界大戦というお祭りが始まるのだが)、ミステリにも数多くの変人が登場した」 と 『書斎の旅人』 (早川書房) で宮脇孝雄氏が云うように、大戦間の英国ミステリには、印象的な変人たちが数多く登場する。たとえばイネスやクリスピンの作品を思い浮かべていただければよいかと思うが、今回、『トム・ブラウンの死体』 以来、実に44年ぶりの長篇紹介となるグラディス・ミッチェル 『ソルトマーシュの殺人』 にも、実に魅力的な変人奇人が次々に登場し、楽しませてくれる。

 事件の舞台となるソルトマーシュ村には、会う人ごとに 「あんたはワニよ、あんたはヤギ」 と決めつける、ちょっと頭のいかれたガッティの奥さんに、カッとなると手の付けられない領主さま、潔癖症で融通のきかない牧師の奥さんなど、小さな村には多過ぎるくらいのエクセントリックな人物が住んでいるのだが、なかでも、きわめつけの変人はほかならぬミセス・ブラッドリー、本篇の探偵役である。

 まずは本書初登場の場面をご紹介しよう。「めちゃくちゃに陰険そうな婆さんだった。小柄で、痩せていて、しわくちゃで、顔は黄ばみ、魔女を思わせる黒い目は眼光が鋭く、猛禽の鉤爪のような黄色い手をしていた。ウィリアムに紹介されると、老婦人は耳障りな高笑いを響かせ、尾を引き抜かれた金剛インコのようにキーキー騒ぎ出した」 しかも着ているものといえば、真っ青なビロードのドレスに黄色とオレンジの縞模様のコーティー、というド派手な衣装。ほぼ同時代に登場したセント・ミード村の穏和な老嬢探偵ミス・マープルとはまったく対照的なキャラクターである。

 夫人は有名な精神分析学者で、その恐るべき外見にもかかわらず (?)、2度結婚し (2人の夫とは死別)、息子は著名な弁護士になっている。ブリッジやビリヤードの名手で、ナイフ投げの達人でもある。その先祖には、17世紀の魔女裁判で処刑された女性がいるというこの 「爬虫類みたいな」 お婆さんは、いきなり不気味な高笑いをあげて相手をぎくりとさせたり、犯罪やセックスに関する過激な発言で周囲を辟易させたりしながら、いつのまにか人々の心をつかんでしまう不思議な力をもっている。読みすすむうちに、語り手の副牧師や少年たちと同じように、読者もまたこの魔女みたいなお婆さんのことがすっかり好きになってしまうにちがいない。ミセス・ブラッドリーは、殺人者とその処罰についても独自の考えをもっていて、時と場合によっては、その考えを自ら実践にうつすこともいとわない。1930年代という時代を考えると、おそろしくラディカルな名探偵である。姦通、私生児、秘密の抜け穴、二重殺人など、煽情的なテーマを扱いながら、徹底してメロドラマ性を排したオフビートな殺人喜劇をお楽しみいただきたい。(2002.7.20)


ジェラルド・カーシュ 『壜の中の手記』 晶文社 【amazon】

 1911年、ロンドン近郊の小さな町に生まれたカーシュは、2歳のとき重い病に倒れ、10日間、床に伏したのち、ついに心臓が停止してしまう。しかし、医師が死亡宣告をした、その瞬間、幼いカーシュは凄まじい泣き声をあげる。死から甦ったのだ。8歳から小説を書き始めたという早熟な少年は、10代半ば、当時の大流行作家エドガー・ウォレスに自作を送りつけた。同封した手紙で彼は、自分の作品のほうがあなたの小説よりも優れている、と豪語したという。

 しかし、作家をめざしたカーシュの夢は、なかなか実現されなかった。彼はさまざまな職業につきながら、文筆修業に励むことになる。パン屋、映画館の支配人、ナイトクラブの用心棒、料理人、借金の取立屋、レスラー、銀行の事務員、セールスマン……経験した職はゆうに10以上に及ぶ。手斧をもった男と素手で渡り合ったこともあるという彼の前半生は、多くの逸話と伝説に包まれている。1934年、長篇小説第1作を出版。しかし、評判を呼ぶにはいたらず、カーシュは、その後も新聞記者や雑誌のライターとして糊口をしのぎながら、小説を書きつづけ、『夜と街』 (38) でようやく最初の成功をおさめる。以後1968年に亡くなるまでの30年ほどの間に、20冊の長篇と、夥しい数の短篇を残している。

 〈危険なヴィジョン〉 でSF界に新風と物議を巻き起こしたハーラン・エリスンは、カーシュを 〈悪魔のプリンス〉 と呼び、「やつは魔術を使っているのだ。この世の人間で、あれほど巧みにものを書ける人間はいない」 と手放しで絶賛し、エラリイ・クイーンは自ら編集するEQMMに、詐欺師カームジン物をはじめ、多くのカーシュ短篇を再録した。最近では、『謎のギャラリー/謎の部屋』 (新潮文庫) の巻末解説で、「豚の島の女王」 について北村薫が 「奇跡のように生まれた作品」 と評し、宮部みゆきは 「どこをとっても非常に残酷な話だし、哀れな話でもあるし、また非常に崇高な話でもある」 と応じている。先日、本格ミステリ大賞を受賞した若島正 『乱視読者の帰還』 (みすず書房) でも、カーシュ作品への愛着が語られていたことをご記憶の方も多いだろう。

 さまざまな (ときには眉唾物の) 逸話に満ちた数奇な生涯を送ったカーシュの作品は、しかし、その人生より、さらに奇想天外で途方もない 〈物語〉 に満ち満ちている。のっぺらぼうな日常に飽いた人々にぜひカーシュランドの扉を叩いてみることをお奨めしたい。 (2002.7.1)


千街晶之 『怪奇幻想ミステリ150選』 原書房 【amazon】

 『生ける屍の死』 『霧越邸殺人事件』 『霧と百合』 『魍魎の匣』 『夏と冬の奏鳴曲』 『ミステリ・オペラ』 ……こうしてみていくと新本格の10年は、そのまま幻想ミステリの10年と言い換えることも出来そうだ。本格ミステリと幻想小説、一般には合理/非合理をめぐって対極的な位置にあると考えられがちなこの2つのジャンルは、実はきわめて密接な関係にあるのではないかとする著者は、怪奇幻想への指向性を色濃く孕んだ内外のミステリ150冊を選んで解説、近代合理主義の生み出した 「ミステリ」 という文学形式における非合理へのベクトルを抽出していく。

 とくに日本ミステリは、本格/変格の呼称が生まれたその出発点から、過激な幻想性を内在した多くの作品を送り出してきた。『孤島の鬼』 『ドグラ・マグラ』 『黒死館殺人事件』 といった、戦前探偵小説を代表する傑作群は、そのまま日本幻想文学史の里程標であり、戦後、『虚無への供物』 から 『匣の中の失楽』 へと受け継がれた 〈反世界〉 探偵小説の試みは、90年代 〈新本格〉 ムーヴメントにおいて再び異形の華を咲かせることになる。

 海外篇では、ポー、ドイルの短篇からチェスタトン、クリスティー、ストリブリングら、黄金時代ミステリの幻想性、非合理の合理の系譜をたどり、J・D・カー 『火刑法廷』 とその影響、本格ミステリが神と出会ってしまったクイーン 『第八の日』 の衝撃、ボルヘスの世界/文学観、バーディン、ブロックら、異常心理の探求から一気に非合理の世界へと突き抜けたニューロティック・ミステリ、ハーバートやストラウブにおけるモダンホラーとミステリのハイブリッド、エーコ、アクロイドなど、ミステリ/幻想小説の形式に依った現代文学の隆盛をみていく。巻末の 「論理の悪夢を視る者たち」 は、幻想ミステリの系譜を歴史的に概観しており、状況の整理に役立つだろう。 (2002.6.28)


フランシス・アイルズ 『被告の女性に関しては』
晶文社 【amazon】

 バークリー 『毒入りチョコレート事件』 にはすっかり夢中になってしまったが、アイルズ名義の 『殺意』 を手に取ったのはずいぶん後だったように思う。創元推理文庫の 〈はてなおじさん〉 マークを一所懸命追いかけていた駆け出しミステリ・ファンの目に、〈時計〉 マーク (法廷・倒叙・その他) はあんまり魅力的には映らなかったのだ。まして 『レディに捧げる殺人物語』 は、その擬似ロマンス小説風のタイトルからして気に入らなかった (ポケミス版もとうに絶版になっていることだし、いいかげん 『犯行以前』 に改題しても好いのでは。一時期、少女漫画家の装画になっていたこともある不遇な本だ)。

 しかし、後になって初めてこの2冊を読んだときには、やっぱり、たちまち夢中になってしまった。バウチャーが云うように、これは 「倒叙探偵小説」 ではないが、滅法面白い、優れた小説であることは間違いない。そして、今度出る 『被告の女性に関しては』 は、あきらかにこの 『殺意』 『犯行以前』 の延長線上にある作品である。作者の皮肉な人間観察はここでも冴えわたっているが、洗練されたユーモアの点では、あるいは前2作の上を行っているかも知れない。典型的な三角関係の話がここまで面白くなるとは、正直、思いも寄らなかった。

 主人公の青年アランの造型にはあきらかにアイルズ=バークリー自身が色濃く投影されているのだが、しかし、作者のアランを見るまなざしは相当に辛辣である。虚勢をはりつつもいつも自分に不安を感じている青年アランは、魅力的な人妻イヴリンと出会い、ついに彼女を征服する。だが、征服したと思っているのはアランだけで、受身に見えてすべてをリードしているのはイヴリンの方なのは一目瞭然。このへんの距離のおき方、そこから生まれるアイロニーとユーモアは絶妙だ。本書の読者はアランとともに、思わぬ展開に翻弄され、一喜一憂しながら、決定的瞬間へと突き進んでいくことになるだろうう。

 これは所謂 「探偵小説」 ではない。しかし、「人間の性格」 への興味を一貫して掲げるロジャー・シェリンガムのファン、そして類稀な実験精神とユーモアに満ちたバークリー・ミステリの愛読者には、おおいに愉しんでいただける本だと思う。 (2002.5.29)


マルク・ドンデ 『タチ― 「ぼくの伯父さん」 ジャック・タチの真実』
国書刊行会 【amazon】

 ミュージック・ホールの芸人として出発、一人芸 〈スポーツの印象〉 で人気を博したあと、仲間を集めて映画製作に乗り出したジャック・タチは、飄々たる中年紳士ユロ氏がいたるところにほのぼのとした笑いをひきおこす 《ユロ氏の休暇》 《ぼくの伯父さん》 で世界中の観客を魅了する。「作品が3つか4つもあれば芸術家が自己を表現するには十分」 というタチは、四半世紀のあいだにわずか6本の作品しか撮らなかった。理想とする映画を撮るために町をそっくり1つ作ることまでした男である。喜劇王バスター・キートンは 「彼は喜劇映画を、我々が置き去ったところから引き受け、さらに前進させた」 と評し、〈新しい波〉 のトリフォーは彼に対する強烈なシンパシーを表明した。本書は映画100年の歴史に孤独な輝きをはなつ天才ジャック・タチの真実に迫る評伝である。夥しいスチールや撮影スナップも楽しい。

 ――というわけで、ジャック・タチの 《ぼくの伯父さんの休暇》 (53) を見る。ただし、この邦題にはちょっと問題があって、主人公ユロ氏の甥が登場するのは、5年後に公開された 《ぼくの伯父さん》 (58) で、この作の時点で 〈ぼくの伯父さん〉 というのは実は意味不明なのだが、これは日本での公開順が逆だったために生じた事態である。原題を直訳すれば 《ユロ氏の休暇》。タイトルどおり、海辺の小さなホテルにオンボロ車に乗ってやってきたユロ氏がバカンス客のあいだにひきおこす波紋を、スケッチ風に重ねていく。チャップリンやキートンの無声喜劇映画を連想させるつくりだが、ユロ氏はけっして 「笑い」 をとりにはいかない。この背の高い、無口な男が独特の奇妙なリズムで歩きまわると、なぜか、その周囲では奇妙な事態が次々に生じるのだ。ユロ氏自身は、普通に車を運転したりボートを漕いだりテニスをしたりしているつもりなのだが、どういうわけか、ユロ氏のいくところ、世界の調子が (少しだけ) 狂ってしまう。爆笑ではなくくすくす笑い。一見、即興的な笑いを集めたようにもみえるこの映画を、タチがどのように撮ったかは、ぜひドンデの本で確かめてほしい。 (2002.5.2)


朝倉無声 『見世物研究』 ちくま学芸文庫 【amazon】

 昭和3年 (1928)、春陽堂から出版された日本見世物研究の基本文献。1977年に思文閣出版から復刻が出ていたが、今度、新たにちくま学芸文庫に入ることになった。

 朝倉無声 (明治10-昭和2) は、在野の研究者として明治期における古典の翻刻や編纂事業に貢献、宮武外骨のあとをうけて雑誌 《此花》 に関わり、ついで 《風俗図説》 を創刊して、江戸の社会風俗についての多くの研究・随筆を発表した。『見世物研究』 はその遺著である。

 まず 「伎倆篇」 として幻術・手品・軽業・踊り・力持・百面相・謎解きなどの見世物芸が紹介される。次の 「天然奇物」 は畸人 (フリークス)・珍禽獣・奇石木石など、「細工篇」 は江戸の話題をさらった籠細工や人形、機巧 (からくり)、エレキテルなどを紹介する。いずれも当時の引札 (チラシ)、見世物絵の翻刻が掲載され、興味津々のエピソードをまじえながら、江戸時代の多彩な見世物業の世界を生き生きと描き出している。

 「見世物」 というと、靖国神社の御魂祭でかかるような 「親の因果が子に報い」 的な見世物小屋を連想する人も多いだろうが、実際には江戸時代の見世物は興行的にもっと大掛かりで、多くの資本を集めて、京大坂、名古屋、江戸と巡回するものも多かった。象や駱駝、豹といった異国の動物は、九州へ上陸、町々で興行を打ちながら江戸へと向かった。江戸の街中に何十メートルもの富士山の模型や大仏を作ったり、とにかく大規模なショーがいくつもあった。現在の我々が考える以上に、江戸の見世物は豊かなヴァラエティを誇り、産業構造も確立されていたのである。

 ただ様々な見世物の数々を見ていくだけでも楽しいし、江戸時代のエンターテインメントを再発見する面白さもある本。オールティックの 『ロンドンの見世物』 のような社会史的視点があれば、もっと刺戟的なものになっていたはずだが、そこまで無声に望むのは無理というものだろう。本書以降、これを凌駕するものが出なかったことのほうを問題としたい。今後の新展開を期待させるものとして、あえて本書に拠らなかったという川添裕の近著 『江戸の見世物』 (岩波新書) や、明治以降の博覧会や縁日のお化け屋敷を精力的に追いかける橋爪紳也の一連の研究の併読をぜひお奨めしたい。見世物研究はまだまだ大きな可能性を残している。(2002.1.27)


ウィリアム・ゴールディング 『ピンチャー・マーティン』 集英社絶版

 現代のロビンソン・クルーソー物語である。海軍大尉マーティンは敵襲をうけて艦から海に投げ出される。船は沈没。彼はただひとり大西洋の真ん中に突き出した岩礁に泳ぎ着く。しかし、クルーソーに様々な恵みを与えた島とは異なり、そこは徹底的に不毛な、人間の存在を拒む悪意に満ちた世界であった。意志の男マーティンは生きのびるために、そして発狂してしまわないために戦いぬこうと決意する。彼はまず狭い岩礁のあちこちに名前をつけることから始める。イガイの採れる場所を 〈食糧の崖〉、食事をする所を 〈赤獅子亭〉 といった具合に。名前をつけることは、それを飼いならすこと、征服することだ。そうして彼は、この小さな世界を彼に順応させようとする。しかし、その世界はけっして征服を許さなかった。「鏡なしで、人格がどうして保てるだろう」 自分を相対化する他者の存在しない孤絶した空間で、彼のアンデンティティは次第に失われていく。そしてついに、世界の悪意を凝縮したかのような嵐がやって来る……。最後の1頁であかされる真実に、読者は呆然としてしまうだろう。(2002.1.20)


高山宏 『奇想天外・英文学講義』 講談社メチエ 【amazon】

 「この世の中には異常 (アブノーマル) なもの、奇形的 (グロテスク) なものに仮託することでしか、その真実を語ることができない、そんなものがあるのではないか。……この世には探偵小説でしか語れない真実というものがあるのも、また事実であるんだぜ」 山田正紀の大作 『ミステリ・オペラ』 のライトモティーフとも云うべき一節である。通常のリアリズムでは描きえない真実を描くために採用された形式が探偵小説であるならば、これはまさに 「マニエリスム」 の定義そのものではないか。

 「合理的には絶対につながらない複数の観念を、非合理のレヴェルでつなぐ超絶技巧をマニエリスムという」 と高山宏は云う。旧来の世界像が崩壊の危機にさらされたとき、画家たちは古典的なリアリズムを捨て、歪んだプロポーション、謎めいた意匠や寓意に満ちた絵を描きだし、詩人はまるで暗号のような謎詩を創り始める。真実はその謎を解き明かしたときに初めて見えてくる。異常で奇形的な世界を描くには、それに対応した表現をとらざるをえない。彼らのめざしたのは、本来なら結びつきえないものを結びつけて、それによって人々に驚異をあたえることだった。そこには、魔術的な結合術による世界回復、真理探究の強い願いがこめられている。

 それぞれの時代に、それぞれのマニエリスム的表現形式があった。19世紀末から20世紀初頭に目を移せば、それはたとえばシュルレアリスムであり、探偵小説である。この小さな、しかし驚くべきヒントがいっぱいに詰まった 「英文学講義」 の最後のほうには、マニエリスムとしての探偵小説がちゃんと1章かまえられている。「文学講義」 なのに、デパートや顕微鏡、テーブル、造園術、カメラ、お金、ジェットコースターなどの話が次から次へと出てくる。これぞ万物を 「つなぐ」 魔術的結合術である。マニエリスト英文学者にして疲れを知らぬ 「口舌の徒」 高山宏が、文字通り縦横無尽に語り下ろした、「目からウロコ」 の面白文学史。『殺す・集める・読む』 のサイドリーダーとしてお奨めしたい。(2002.1.13)


ウィリアム・ゴールドマン 『プリンセス・ブライド』 ハヤカワ文庫FT 【amazon】

 ビリーは本なんか全然興味のない少年だった。遊びにスポーツ中継に、時間はいくらあっても足りないくらいなのだ。すべてが変わったのは10歳のとき。肺炎にかかったビリーは1ヶ月の療養生活を余儀なくされる。その最初の夜、部屋に入ってきた父親は、ベッドの端に腰を下ろすと、こう云った。「第1章 花嫁」

 父は一冊の本を手にしていた。ビリーは尋ねる。「その本の中になにかスポーツ出てくる?」 父親は云う。「フェンシング、格闘技、拷問、毒薬、まことの恋、憎しみ、復讐、大男、ハンター、悪人、善人、世界一の美人、ヘビ、クモ、ありとあらゆる種類のけもの、苦痛、死、勇敢な男、臆病者、すごい強いやつ、追跡、脱走、嘘、まこと、情熱、奇跡」

 その日から世界は変わった。毎日、父親が少しずつ読んでくれるその物語にビリーは夢中になった。病気が癒えると、彼は本なしではいられない少年になっていた。スティーヴンスン、スコット、ユゴー、デュマ……。そして何年もがすぎ (物語のように) 大人になったビリーは作家になっていた。精神分析医の妻との間には息子がひとり。その息子が10歳になったとき、彼はかつて自分が夢中になった物語、『プリンセス・ブライド』 をプレゼントにしようと思いつき、絶版になって久しいその本をやっとのことで探し出す。しかし、その本は父が読んでくれた物語とは随分と違っていた。ビリーの父は、物語とは関係のない退屈な部分をとばして、面白い本筋だけを読んでくれていたのだ。

 ビリー――ウィリアム・ゴールドマンは、父がしてくれたと同じように、自分も息子のために 『プリンセス・ブライド』 娯楽抜粋版を作ろうと決心する。物語好きの読者なら、この書き出しだけですっかりこの本に夢中になってしまうだろう。子どもの頃、本を読み始めた頃の、何を読んでも新鮮な感動に満ちていた頃の気持ちを思い出させてくれる一冊。そしてこの物語には、父親の言葉どおり、「フェンシング、格闘技、拷問……嘘、まこと、情熱、奇跡」 が全部出てくるのだ。いったん読み始めたら、次はどうなるか知りたくて、頁をめくる手を止めることはできなくなるだろう。 (2002.1.5)