昨日の本棚 2001

〈今週の本〉 といったかたちでこれまで折にふれ紹介してきた本をまとめてみた。「書評」 というような大層なものでは勿論なく、単なる紹介やメモのようなものがほとんど。とくにそのとき読んでいた本、というわけでもない。むしろ何年も (何十年も) 前に読んだ本や、編集中の本に関連して思いついたものを取り上げたりと、選択はかなりいきあたりばったりである。ご覧のとおり、新刊紹介の役はほとんど果たしていない。評論がわりあいに多いのは、探偵小説をジャンル内的な議論よりもうすこし大きな枠組みで考えるためのヒントになると思う本を、これは意識的にピックアップしているため。
アレン 『オンリー・イエスタデイ』
イエイツ 『ヴァロワ・タペストリーの謎』

ウェブスター 『モルフィ公爵夫人』
ウォー 『大転落』
ヴォルテール 『カンディード』
ギンズブルグ 『神話・寓意・徴候』
『M・R・ジェイムズ怪談全集1・2』

シューエル 『ノンセンスの領域』
チェスタトン 『新ナポレオン奇譚』
ティーク 『長靴をはいた牡猫』
ディケンズ 『エドウィン・ドルードの謎』
トーガスン&パウエル
   『100ベスト・アルバム・カヴァーズ』

ニコルスン 「教授と探偵」
バルトルシャイティス 『アベラシオン』
フェイガン 『ナイルの略奪』
ポオ 「ブラックウッド風の記事を書く作法」
ホッケ 『迷宮としての世界』
マーカス 『もう一つのヴィクトリア時代』
マアルーフ 『アラブが見た十字軍』
マイリンク 『ゴーレム』
マクナリー&フロレスク 『ドラキュラ伝説』

ローレンス 『アメリカ古典文学研究』
ロッジ 『交換教授』

酒本雅之 『アメリカ・ルネッサンスの作家たち』
吉田健一 『謎の怪物・謎の動物』

クリスマスの本


【2002】 【2003-2004】 【HOME】

マージョリー・ホープ・ニコルスン 「教授と探偵」
『推理小説の詩学』 研究社出版、所収

 年末恒例の各種ミステリ・ベストの結果について、あるミステリ評論家が、作家の 「社会とじっくり取り組む姿勢が目立った」 というようなことを云っているのが目にとまった。作家自身の考えはともかくとして、こうした捉え方はかつての所謂 「社会派」 ミステリの読まれ方とまったく同じだ。そういう作品のあり方も読まれ方も否定はしないが、そういう 「姿勢」 が 「単なる探偵小説」 よりも上のものであるような前提が見え隠れしているようで、すこしげんなりした。

 こんなときM・H・ニコルスンが1929年に発表したこのエッセイを思い出す。ニコルスンは20世紀を代表する英文学者のひとりだが、同時に探偵小説の熱烈なファンであり、良き読者であった。大学人の探偵小説狂ぶりをユーモアたっぷりに紹介しながら、彼女は云う。探偵小説はたしかに逃避の文学だ。しかし、心理分析や感情の吐露は 「心理小説」 に任せておけばいいではないか。われわれは楽しみのために探偵小説を読むのだ。そして彼女は祈る。「人間感情の最も深遠で鋭い解剖から、人間の魂の痛切な叫び声から、人間行動の根源の大胆な分析から、苦痛と陶酔の翼から、真理探求者の野蛮な率直さから、若い心の抒情的な情熱から、スウィフトよりすういっと早い諷刺家の鋭く辛辣な機知から、かび臭いヴィクトリア朝風俗を腹立たしいほどに破壊することから、現代の欺瞞と偽善を無慈悲に暴露することから――神よ、我らを救いたまえ!」(大社淑子訳)

 もちろん彼女は、研究や生活の場においては逃避的な人間ではなかった。『暗い山と栄光の山』 『月世界への旅』 (国書刊行会) といった一連の観念史的研究は、過去を扱っても 「いま」 「ここ」 との結びつきを失ってはいない「開かれた」 著作だし、彼女自身、優れた教育者でもあった。しかし、彼女は重ねて云う。「本物の探偵小説の魅力は、その徹底的な非現実性にある」 と。リアルな現実を求めるなら、それが探偵小説である必要はないんじゃないのか。

 いま読み返してみて、ニコルスンが細部のデータを収集し、それを分析・綜合して真相に到達する探偵の方法は、歴史学者や科学者の方法に通じていると指摘し、ギンズブルクの 『神話・寓意・徴候』 にはるかに先駆けていることに、あらためて気がついた。 (2001.12.30)


クリスマスの本

 探偵小説や怪奇小説は昔からクリスマスとは縁の深いジャンルだった。夏になると 『四谷怪談』 だの 『牡丹灯籠』 だのが舞台にかかる日本とは違い、英国では怪談は冬のものと決まっていて、冬の夜、炉辺に子どもたちを集めて怖い話を読んで聞かせる、なんてことが行なわれていた。M・R・ジェイムズの怪奇小説の何篇かは、そうした機会に披露するために書かれたものだった。雑誌もクリスマス特集号には好んで幽霊物を掲載した。ディケンズの 『クリスマス・キャロル』 もそのひとつ。今年出した本では、ヒュー・ウォルポール 『銀の仮面』 収録の 「雪」 が、クリスマスの夜、ある女性のもとを訪れた亡霊の恐怖をえがいて出色で、外では静かに雪が降りしきり、聖歌隊の歌が聞こえてくる、その対比が抜群の効果をあげている。

 クリスマスに親しい人に本を贈るのも、古き良き風習で、とくに肩の凝らない読物として探偵小説はプレゼントに好まれた。人気作家の新作もしばしばこの時期にあわせて刊行された。「クリスマスにクリスティーを」 とは有名な宣伝文句だが、ずばり 『ポアロのクリスマス』 なんてタイトルもある。かたやエラリイ・クイーンには 『最後の一撃』 というクリスマス・ミステリがあって、「クリスマスの第×夜に、あなたを本当に愛する者が贈ります……」 という謎めいたカードが次々に送られてくる。シリル・ヘアーの 『英国風の殺人』 は、雪に降り込められ、外界と連絡が断たれた貴族の館が舞台。「ウォーベック邸に神のご加護を!」 と乾杯した青年が、その場に斃れるというこれ以上ないくらいの古典的な殺人事件。今年あらためて文庫化が話題を呼んだ大阪圭吉の 「寒の夜晴れ」 (『銀座幽霊』 所収)は、北国H市で、やはり雪降るクリスマスの夜、出張中の教師の留守を守る家族が皆殺しにされていた、という事件。哀切きわまる結末が深い余韻を残す。

 楽しいクリスマスをすごすなら、パーシヴァル・ワイルドの 『悪党どものお楽しみ』 などはどうだろう。探偵役のビルとお気楽なワトスン役トニーの掛け合いが愉快だし、どの話もほのぼのとしたユーモアがいっぱいだ。そうそう、プレゼントに最適といえば、『ミステリ美術館』 を忘れちゃいけない。もしあなたの親しい人がミステリ・ファンなら、この冬、これ以上の贈物はないはず。 (2001.12.24)


ストーム・トーガスン&オーブリー・パウエル
『100ベスト・アルバム・カヴァーズ』
 ミュージック・マガジン

 レコード・ジャケットを集めた本は数あれど、この本はただのコレクションとはちょっと違う。編者はデザイナー集団 〈ヒプノシス〉 を結成して、レッド・ツェッペリンやピンク・フロイドなど数々の名盤を手がけ、一世を風靡した二人。本書は、彼らがデザイン的視点から選んだ100点のジャケットを収録しているのだが、それだけではない。各頁には、中央に選ばれたジャケットの写真、その周囲にアーティストやデザイナー自身、あるいは関係者の証言、挿話などが配置されていて、その作品 (ジャケット) が生まれるきっかけやコンセプト、裏話などが紹介されているのだ。

 たとえばレッド・ツェッペリンの 《聖なる館》 の頁を開けば、アイディアの一部はA・C・クラークの 『幼年期の終り』 から得ている、とか、ロケ地は北アイルランドの海岸で、最初は大人三人子供二人を配して 〈家族〉 のイメージを考えていたのが、撮影途中で子供二人だけのほうが面白い、ということに決まったこと、子供たちはシルバーとゴールドのスプレーで全身を塗られ、さらに写真をエアブラシで加工したこと、子供のヌードが非難され、アメリカ南部やスペインでは発売禁止になったことなどのエピソードを知ることができる。

 ほかにもジャニス・ジョプリンの 《チープ・スリル》 をロバート・クラムは24時間で仕上げたとか、裏ジャケット用に描いたものが表に使われたとか、《恐怖の頭脳改革》 でH・R・ギーガーを起用したキース・エマースンがスイスのギーガー邸を訪ねると、そこは奇怪でエロティックなオブジェで埋め尽くされた 〈恐怖の大聖堂〉 だった、とか、その記事を読んだギーガーは後にエマースンの描写はすべてでっちあげだと語ったとか、テクニックやアイディアの話からゴシップめいた話まで、興味津々の情報満載の一冊。こうしてみていくと、かつてレコードジャケットは、それ自体がメッセージであり作品だったのだな、ということがよくわかる。 (2001.12.16)


スティーヴン・マーカス 『もう一つのヴィクトリア時代』 中公文庫 【amazon】

 謹厳実直なイメージのヴィクトリア時代の英国紳士が、実は意外なほど糜爛した性生活をもっていたことは、現在ではよく知られているが、これはポルノグラフィの研究を通して、19世紀英国男性のセクシュアリティーをさぐった古典的名著。田村隆一の翻訳もある長大なポルノ 『わが生涯の秘密』 の不詳の作者をめぐる考察でも有名になった。

 たとえば、ヴィクトリア時代の男たちがセックスを 「消費」 として捉えていたことが、多くのポルノ作品で、「射精」 が文字通り “spend” という言葉で表現されていたことからも明らかになる。セックスも一種の経済行為なのだ (だから 「やりすぎ」 は消尽をもたらす)。彼らの想像/妄想世界において、ポルノグラフィがいわば 〈ポルノトピア〉 ともいうべき一種のユートピアを作り上げ、そこでは男性の欲望に対して、あらゆる存在が 〈もの〉 と化していくことを、具体的な例証をあげて痛烈にあばきだした興味津々の文化研究の本。

 「美の技術」 を扱ったワイリー・サイファー 『文学とテクノロジー』 (研究社出版)、殺人事件と報道を集中的に取り上げたリチャード・D・オールティック 『ヴィクトリア朝の緋色の研究』 と併読すれば、驚くべき19世紀社会のもう一つの貌が見えてくると同時に、現在の社会や文化が、いかにこの時代に端を発しているかが、嫌になるくらいよくわかる (実は 《異貌の19世紀》 の一冊として本書の訳出を考えていた)。本書については、翻訳が出るはるか以前に植草甚一が詳しく言及しているが (『ポーノグラフィー始末記』 晶文社)、著者はハメット研究の先駆者でもあり、コンチネンタル・オプ傑作集の編者としても、ミステリ界とは縁の深い人物である。 (2001.12.9)


レイモンド・マクナリー&ラドゥ・フロレスク 『ドラキュラ伝説』 角川選書

 いまではすっかり有名になったドラキュラのモデル、トランシルヴァニア (現ルーマニア) の君主、ヴラド・ツェペシュ――串刺し公ヴラドを初めて本格的に紹介した本。敵からはドラクール (悪龍) と恐れられたこの君主が、トルコ軍の侵攻に対してヨーロッパ世界の防壁となって戦った優れた軍事的才能の持ち主であり、大国間、異なる宗教・宗派間の微妙なパワー・バランスのなかで権謀術数を駆使して権力を維持しながら、国内にあっては厳格公正な政治を敷き、名君として評価されていたこと、一種、織田信長的な戦乱時代の風雲児であったことを明らかにしていく滅法面白い本だが、ここ数ヶ月のニュースをみていて、しばしばこの本のことを思い出してしまった。

 というのは、このヴラドを 「敵」 側のメディア――といっても素朴な木版刷りの小冊子や瓦版のようなもの、あるいは大衆むけの読本なのだが――が、その残虐行為を強調することによって、次第に 「怪物」 的イメージを作り上げ、あるいは悪魔と結託した背信者 (これは宗教的に対立する側がもっぱら行なった攻撃) のように描き出し、しいてはそれがブラム・ストーカーによる吸血鬼ヒーローの誕生へと結びついた、という事情があったからである。ビンラディン=タリバン、アメリカ双方の指導者が互いに相手を 「怪物」 「悪魔」 呼ばわりし、神に敵対する存在のように言い募るのをみていると、敵に怪物イメージを押し付ける根本的な構図はまったく変わっていないのだな、と思わざるをえない。クリス・ボルディックの評論 『フランケンシュタインの影の下に』 は、こういう 「怪物」 誕生の論理を追及している。(2001.12.2)


ブライアン・M・フェイガン 『ナイルの略奪』 法政大学出版局 【amazon】

 原題 The Rape of the Nile が直截に表わしている通り、ヨーロッパ諸国によるエジプト古代遺跡発掘、というより盗掘と略奪――西欧による文化的凌辱の歴史を扱った本。18世紀末、夥しい学者を引き連れたナポレオンのエジプト遠征と、その学術的成果をまとめた大冊 『エジプト誌』 の刊行は、西欧世界に一大エジプト・ブームを引き起こした。野心的な考古学者・収集家、一攫千金の夢につられた盗掘者・山師たちが、ナイル流域へと殺到。なかでもメムノンの巨像やオベリスクを次々にヨーロッパへ送り込み、人々の度肝を抜いたイタリア人発掘者ベルツォーニの活躍は目覚しかった。宿敵ドロヴェッティとの発掘競争に、映画 『レイダース』 を思い出す人も多いだろう。

 西欧へ大量に流出した古遺物は、大英博物館やエジプシャン・ホール、ルーブル美術館などで、人々の好奇の目を集め、一種の見世物と化していくわけだが、その辺の経緯はオールティックの画期的大冊 『ロンドンの見世物』 が数章を割いてくれる筈である。いまもヨーロッパの大きな都市に行くと、広場にいきなりオベリスクが建っていたりするのはいったい何故か、を教えてくれる数々の冒険的挿話に満ちた (盗掘者たちはミイラの手足を松明に使っていた、なんて、ゾッとするエピソードも。よく燃えたらしい) 面白い歴史/考古学の本。(2001.11.17)


フランセス・イエイツ 『ヴァロワ・タペストリーの謎』 平凡社 【amazon】

 16世紀後半、ヨーロッパの小国ネーデルラント (オランダ) からフランス王妃カトリーヌ・ド・メディシスに8枚のタペストリーが贈られた。そこに描かれた祝祭絵図には、カトリックの大国スペインの圧政にあえぐ小国ネーデルラントの現状と、盟主オランイェ公ウィレムと市民たちが、フランス・ヴァロワ王家の宗教戦争宥和政策に託した悲願がひそかにこめられていた。『神話・寓意・徴候』 でカルロ・ギンズブルグは、細部の観察・分析から出発する絵画鑑定人や歴史学者の方法を探偵のそれになぞらえたが、イエイツがここで行なっているのは、まさに8枚の絵の細部を徹底的に観察し、そこから得られたデータから演繹的推理を展開していく探偵作業そのものである。「まるで探偵小説のような」 というのはすでに使い古された言葉だが、ここには真に優れた謎解きのスリルがある。そしてそこから、教科書の無味乾燥な年表式記述では絶対に見えてこない、生きた 〈歴史〉 があざやかに浮かび上がる。フランセス・イエイツは 『記憶術』 『世界劇場』 『薔薇十重の覚醒』 など、西欧近代の出発点についての決定的名著を数多く遺した大学者だが、一般読者の入門書には、あるいは本書が最適かもしれない。(2001.11.10)


ジョン・ウェブスター 『モルフィ公爵夫人』 白水社 【amazon】

 モルフィ公爵夫人は家令のアントニオを愛し、極秘裏に結婚する。これを知った夫人の兄、枢機卿とファーディナンド卿は二人を引き裂くと、夫人を監禁する。そして狂人の只中に放り込んで彼女を追いつめ、ついには扼殺する。不条理なまでに残酷な彼らの仕打ちには、ただ夫人の財産目当てとだけでは片付けられない、どす黒い欲望が隠されているように思われる。ここはすべての世界の秩序が狂ったアンバランス・ゾーンなのだ。高貴な身分の公爵夫人が、自分から男を求め、身分の卑しいその男とベッドを共にするが、それ自体、宇宙の秩序を脅かす、許すべからざる反逆行為なのだ。あまりにも急激な感情の動き、激しく衝き上げる欲望。シェイクスピア作劇術の巧みな計算はもはやここにはない。エロスとタナトスが激しく渦巻き、人々を押し流していく。「人格が虚無となり、動物性の極限をさらけ出した人間が自らかけた奸計の罠に逆に足を取られて破滅へ至る、死が死を呼ぶ血腥い芝居」 (河村錠一郎) なのである。1610年代の英国民衆が喝采したのは、こういう芝居だった。(2001.10.27)


『M・R・ジェイムズ怪談全集1・2』 創元推理文庫 【amazon 1巻2巻

 久しぶりにM・R・ジェイムズの怪奇短篇を読み返す。探偵小説におけるホームズ譚やブラウン神父譚と同じような位置を、怪奇小説において占める永遠のクラシックであり、何度でも再読に耐える作品群である。

 この機会に一言いっておきたいのは、キング以降の所謂 〈モダンホラー〉 愛好者が、M・R・ジェイムズの作品を古き良き怪奇小説の代表格として、雰囲気重視のお上品な文学的ホラーのように評することがときに見られるが、これは完全な誤解である。雰囲気/文学派という評は、たとえばデ・ラ・メアにはあてはまっても、ジェイムズにはまったく見当違いの評だ。

 M・R・ジェイムズの怪奇小説では必ず 「出るべきもの」 が出る。妖怪や幽霊の出現をクライマックスとして、それに向けてすべての描写が的確に積み重ねられていく。しかも、その記述はきわめて簡潔、不必要な場面は潔くカットされている。そのへんはむしろ、いたづらに冗長な現代作品にはない美徳といってよく、岡本綺堂の怪奇短篇をも想起させる。そして出現する怪異は必ず具体的かつ鮮烈なイメージを持っており、しばしば思いもよらぬ時間と場所で主人公に襲いかかる。「皺くちゃな亜麻布のような顔をした怪物」 がのしかかってきたり、「足だか腕だか触覚だか知らないが、そうしたものが何本もうようよ蠢いて」 いる土臭い化物がいきなり首にしがみついてきたり、枕の下に手をつこっむと、「歯があって、まわりに髭の生えた」 人間のものではない口に触れたりするのだ。視覚や触覚、聴覚など、五感に直接訴える怪異描写の巧みさと、そのクライマックスへ至るまでの抑制の効いた語り口は他の追随を許さない。

 たしかにM・R・ジェイムズは、読者の世界観を揺さぶったり、ナマな恐怖心をかきたてたりはしない。その点では古風で伝統的な怪奇小説である。しかし、よく出来た物語が巧みに語られるのを好む読者なら、ここに収められた30篇余の怪奇譚に必ずや十分な満足をおぼえることだろう。 (2001.10.20)


デイヴィッド・ロッジ 『交換教授』 白水社 【amazon】

 英国の冴えない大学教師フィリップ・スワローと、米国のこちらは自信満々、野心的な教授モリス・ザップ (ジェイン・オースティンの専門家) が交換教授の制度で互いのポストを半年間受け持つことになる。二人は文化的ギャップに悩まされながらも、それぞれ異国の地にフィットし始め、やがてお互いの妻と寝るはめになってしまう――と書いてしまうと、なんのことはない 「交換殺人」 ならぬ 「夫婦交換」 の話か、となってしまうのだが、この小説の可笑しさは、たとえば 『小説を書こう』 という本のような小道具の使い方にある。「英語305」 の授業のため、スワローが取り寄せようとしたこの本は、冒頭、「最悪の型は、全然結末を持たない物語です」と宣言するが、この小説 『交換教授』 自体、最後にこの 「最悪の型」 であることがわかる。スワローの妻は、「1章全部が書簡体小説の書き方にあてられていますが、本当のところ、18世紀以降、誰もそんな小説は書いていないのじゃないかしら」 と笑うが、その章全体が実は書簡体形式なのである。「フラッシュバックはできるだけ少なく」 の箇所を引用したとたん、作者は嬉々としてフラッシュバックを多用し始めるし、スワローとザップが小説と映像の違いを (もちろん脚本形式で) 論じているうちに、唐突に 「THE END」 のクレジットが出てしまう。

 いってみれば実験小説、メタフィクションの類なのだが、アメリカやフランスのそれが、ともすると理論先行で、作品自体は面白くもなんともないという事態に陥りがちなのに対して、さすがは 『トリストラム・シャンディ』 の国、数頁に一度はニヤリとせずにはいられないコミック・ノヴェルに仕上がっている。小説に 「人生」 を求めたり、「泣ける」 ことを読書の物差しに考えているような人には無縁の読物かもしれないが。 (2001.10.13)


酒本雅之 『アメリカ・ルネッサンスの作家たち』 岩波新書

 久しく絶版状態の本だし、アメリカ文学者による19世紀米文学の概説書なので、ご存じない方も多いと思うが、ミステリ読者にも有益なヒントがたくさん盛り込まれている。

 18世紀の合理主義者が、この世界を一点の曇りもなく説明し尽くすことができるものと考えていたのに対して、19世紀のいわゆるアメリカ・ルネッサンスの作家たちは、世界を大いなる謎、不可解な混沌としてとらえていた。しかし、その 〈謎〉 との取り組み方は、それぞれの資質によって大きく異なる。エマソンとホイットマンは、世界の不可解性に恐怖を感じることなく、むしろその神秘性を賛美し、歓びを感じていた。彼らは嬉々として 〈謎〉 の中に走りこみ、それと一体化する。

 しかし、ポーはこの世界の不可解さを、自らを脅かす、暗い、恐ろしいものとしてとらえた。「わからないもの」 は恐怖と破滅をもたらす。ゆえにポーは憑かれたように 〈謎〉 を観察し、分析し、解明しようと試みる。「メエルシュトルムに呑まれて」 のように解明に成功すれば生還することができる。失敗すれば 「アッシャー家の崩壊」 の恐ろしい破滅が待っている。混沌に満ちた世界がまるでアッシャー家の魔沼のように、ポーを飲み込んでしまうのだ。そこで彼は、あらかじめ解かれることを前提にした 〈謎〉 の物語を発明する。すなわち探偵小説である。どんなに不可解で恐ろしい謎も、それが探偵によって解かれることは初めから約束されている。それによって自分をとりかこむ混沌の魔を祓おうとした、これは骰子一擲の冒険であった。その最終到達点が、宇宙の法則を説明するために、宇宙を 〈再創造〉 してしまった 「ユリイカ」 ということになるだろう。

 一方、ホーソーンは 〈謎〉 の傍観者だ。彼もまた世界の 〈謎〉 に恐怖を感じながらそれに惹き付けられていたが、しかし最後の一歩は、柱にしがみついてでも踏みとどまるのである。「若きグッドマン・ブラウン」 を見よ。主人公は日常の裏側に隠れていた恐るべき魔を目撃する。それに対して彼はアクションを起こそうとはしない。しかし若くて無邪気な青年は以後、懐疑主義者へと変貌し、その人生は永遠に明朗さを失ってしまう。

 そしてメルヴィルにとって、〈白鯨〉 に象徴される 〈謎〉 とは、世界の底辺にひそむ 「測りがたい悪意」 にほかならず、彼はそれに挑戦し、打ち倒すために混沌の海へと出て行く。
 ちょっと乱暴な要約になってしまったが、ポーの探偵小説がどのような土壌から出てきたかを考えるには、格好の手掛かりとなる1冊である。(2001.10.6)


チャールズ・ディケンズ 『エドウィン・ドルードの謎』
創元推理文庫 【amazon】

 ディケンズ最後の、未完に終った長篇小説である。そして 『バーナビー・ラッジ』 で既に探偵小説的トリックを手がけていたディケンズが、盟友コリンズの 『月長石』 にも刺戟されて、初めて本格的に取り組んだ探偵小説でもある。登場人物が出揃って、いろいろ怪しげな事件が起きはじめ、ついに主人公エドウィン・ドルードが失踪を遂げたところで、作者の死によって唐突に中断されたこのミステリは、それゆえに多くの人の関心を引きつづけ、その後の展開を推理する様々な試みが行なわれてきた。しかし、現存する部分だけでも、これは豊かな細部に満ちた十分魅力的な小説であり、一読に値する作品であることは間違いない。

 私見では、これは一種の吸血鬼小説であると思う。ドラキュラやカーミラのように犠牲者の首に牙を立て、血を啜りこそしないが、この作品に登場する阿片吸引者ジャスパーは、いわば衰弱した、精神的な吸血鬼ではないかと思うのだ。この謎の多い男は 「催眠術」 ではないかと疑われる不思議な、人を意のままにする力をもっているのだが、これはまさに吸血鬼の特徴的な魔力のひとつだ。ヒロイン、ローザの豊かな生命力を、ジャスパーの暗い力が次第に蝕んでいく。ローザは彼を恐怖と嫌悪をもって見つめながら、その影響力から脱することができない。ジャスパーの愛は、肉欲を欠いた、精神的な愛であるが故に、途方もなく淫らで邪なものとなる。ポーのたとえば 「リジイア」 を想起させる吸血鬼の愛。ヴィクトリア時代の大文豪の意外に現代的な一面をうかがわせる点でも興味深い作品である。 (2001.9.22)
『ディケンズ短篇集』(岩波文庫) に収められた、「奇妙な依頼人の話」 「狂人の手記」 「ある自虐者の物語」 など、異様なオブセッションや異常心理を扱った短篇をあわせ読めば、その現代性に驚く読者も多いことだろう。


ルードヴィッヒ・ティーク 『長靴をはいた牡猫』 岩波文庫

 幕が上がると舞台の上には上演を待つ観客の姿がある。やがて舞台の上で幕があき、劇中劇 「長靴をはいた牡猫」 が始まる。しかし、劇の作者が舞台裏から飛び出してきたり、役者が取り乱し、あるいは (舞台の上の) 観客に話しかけたり、物語はなかなか真っ直ぐには進まない。劇中劇の人物は自分たちが劇の中の人物であることを意識していて、それを見ている観客とのあいだの壁を打ち壊していく。

 そのさまを我々(舞台の下の) 観客は見ているわけである。劇中劇の俳優はいわば二重の視線にさらされているわけだが、彼らは舞台の上の観客もまた 『長靴をはいた牡猫』 の俳優にすぎないことを承知しており、それどころか、劇中劇 「長靴をはいた牡猫」 のなかで、彼らが現にいま出演中のティーク作の劇 『長靴をはいた牡猫』 を批評し始めるのである。やがてこの芝居は、舞台の上で行なわれることを一方的に 「見る」 側だったはずの観客を、「見られる」 側である劇中の俳優が逆に観察し、批評するという、視線の逆転をもたらすことになる。1960年代にさかんに行なわれた実験演劇、前衛演劇では当たり前になった手法だが、この戯曲が書かれたのは1797年、いまから200年も前のドイツ・ロマン派の時代である。「日の下に新しきものなし」 というべきか、18世紀末と現代との意外な親近性をそこに見るべきか、いずれにしても興味津々の愉快なメタ演劇である。(2001.9)


エドガー・アラン・ポオ 「ブラックウッド風の記事を書く作法」
東京創元社 『ポオ全集3』 所収 【amazon】

 文庫判ポオ小説全集に収録されていないこともあって、ポオの作品の中ではもっとも読まれていないものの一つかもしれない。あの黒い函に入った分厚い 『全集』 で読むしかないのだが、それも 〈詩・評論〉 の巻に分類されていることで、随分損をしていると思う。「ペスト王」 や 「シエラザードの千二夜の物語」 にも劣らぬファルスの傑作なのだが。

 タイトルの 「ブラックウッド」 とは、怪奇作家アルジャナン・ブラックウッドでは勿論なくて、ゴシック風の作品を盛んに載せていた19世紀英国の人気雑誌 〈ブラックウッド・マガジン〉 のこと。文学かぶれのアメリカのご婦人が、わざわざエジンバラまで編集長ブラックウッド氏に教えを請いにやってくる。氏は、早すぎた埋葬、阿片、鐘の中の男など、いかにもポオ好みの題材を取りあげながら、それを記述するスタイルをさまざまにレクチャーしてくれる。たとえば 「簡潔調」 「昂揚調」 「形而上学調」 「超絶主義調」 …… (これは当時の雑誌文芸のパロディであると同時に、ポオ自身の創作の秘密の一端をあかす自己パロディにもなっている)。

 後半は、件のアメリカから来たご婦人が早速ブラックウッド氏の教えを実践に移して書き上げた 「ある苦境」 という作品が紹介される、一種のメタフィクション的構成。半可通のとんちんかんな描写で読者を苦笑、大笑させながら、主人公のアメリカ女性は、ゴシック風大寺院の尖塔に登っていく。てっぺんには大時計の機械部屋があった。「私」 は文字盤の穴から首をつきだし、眼下の景色に見惚れるが、そのうちに……乱歩の通俗長篇や少年物で何度もお目にかかったグラン・ギニョール的名場面は、これがオリジナルなのだ。(2001.9.8)
【追記】 その後、岩波文庫で出た 『黄金虫・アッシャー家の崩壊 他九篇』 に 「『ブラックウッド』 誌流の作品の書き方・ある苦境」 として収められ、読みやすくなった。(2007.4)


グスタフ・マイリンク 『ゴーレム』 河出書房新社

 19世紀後半、プラハのゲットー。宝石細工師の主人公アタナージウス・ぺルナートは、ある日、謎の人物の訪問を受け、一冊の古い神秘書の補修を依頼される。しかし、客の帰ったあと、ペルナートは彼について何も思い出せないことに気づいて愕然とする。どうやらその男は、33年ごとにプラハのゲットーに出現するゴーレムであるらしい。いまから33年前にもゴーレムは出現し、そこへ直接通じる道がない密室で不思議な事件を起こしたという。やがて隣人たちの骨肉争う復讐劇にまきこまれたペルナートは、地下迷路をさまよったあげく、古い建物の一室に迷いこむ。その部屋には地下からの上げ蓋の他、一つも出入り口がなく、彼は一夜をそこで明かすことになる。翌朝、ペルナートは窓から助けを求めるが、その姿はゲットーに恐怖を引き起こす。再びゴーレムが 「あの部屋」 に戻ってきたのだ!

 複雑怪奇な多重構造をもつ、まさに悪夢のようなこの物語は、第1次大戦さなかのドイツで出版され、ベストセラーとなったカバラ/ドッペルゲンガー小説の傑作である。神秘主義者マイリンクの小説は、正直、なんだかよくわからないものも多いのだが、これはよくわからないながらに物凄い傑作。(2001.9.1)
【追記】 2014年に白水Uブックスで復刊。旧版にはない挿絵25点も収録。


カルロ・ギンズブルグ 『神話・寓意・徴候』 せりか書房 【amazon】

 『チーズとうじ虫』 (みすず書房) や 『ベナンダンティ』 (せりか書房) で歴史学を100倍面白くしたギンズブルグのエッセイ集。なかでも 「徴候」 は探偵小説読者にも得るところが多いはず。絵画の作者鑑定のため、イタリアの学者モレッリが1870年代に発表した方法は、「最も見過ごしやすい細部」 すなわち、「耳たぶ、爪、手足の指の形など」 に注目するものだった。

 「細部こそが事件を観察するための鍵なんだ」 「全体的な印象にとらわれずに、細かい点に注意するようにしたまえ」 ――これは少しあとの1890年代に、別の分野で活躍した人物の言葉である。「探偵は厳密な科学である」 として、観察の重要性を訴えるその人物、シャーロック・ホームズは、実はモレッリとまったく同じ方法論に拠っている。彼はまさに 「耳の形」 の研究者であり、個人を特定する手がかりを指先や服の袖口、靴についた泥などの細部に求めるのである。そしてもう一人、「不必要なものや副次的な与件が真実を示す」 と考え、それを糸口に心理の深層を解明しようとした同時代人に、フロイトがいる。

 足跡を 「読む」 狩人、メソポタミアの占い師、ヴォルテール 『ザディグ』 など、細部を読み解く知の伝統をたどりながら、農夫の日記や異端審問の記録から中世民衆の心性を解き明かすギンズブルグ自身の歴史学の方法論を語る刺激的なエッセイである。(2001.8.18)


イーヴリン・ウォー 『大転落』 岩波文庫 【amazon】

 真面目な学生ポール・ペニーフェザー君は、僚友の乱痴気騒ぎにまきこまれて放校処分になってしまう。しかたなく学校教師の職を求めてウェールズのあるパブリック・スクールへ赴くが、これがとんでもない三流校。校長は経営のため有力父兄のご機嫌取りに必死、その一方で行き遅れの娘をポールに押し付けようとするし、生徒はいうことをきかず、同僚の教師は胡乱な人物ばかり。ひょんなことから裕福な未亡人の寵愛を得て、明るい未来が開けるかと思ったポールだが、そこへ思いもかけぬ災難が降りかかってくる……。バークリー 『地下室の殺人』 やクリスピン 『愛は血を流して横たわる』 など、パブリック・スクールを舞台にした英国ミステリは数多い。とくに 『地下室の殺人』 におけるロジャー・シェリンガムによる作中作に描かれた教師の世界などは、この小説にひじょうに近いように思う。1928年、まさに探偵小説黄金時代に書かれたユーモア小説の逸品である。(2001.8.12)
※このあとアイルズ名義の 『被告の女性に関しては』 のゲラを読みながら、またまたウォーを思い出してしまった。優柔不断な主人公の青年アランは、そのままこの小説の世界に放り込んでもまったく違和感がない。その一挿話が 「ディケンズを愛した男」 としてホラー・アンソロジーに採られることもある残酷なユーモア小説 『一握の塵』 (彩流社) も面白いので、興味のある方は是非。『黒いいたづら』 (白水社) も傑作なんだけど、こちらは絶版。


G・K・チェスタトン 『新ナポレオン奇譚』 ちくま文庫

 舞台は1984年のロンドン、しかしそこはこの小説が書かれた1904年と何一つ変わっていない世界である、という人をくった設定。人々はすべてに倦怠し、国王は籤引きで選ばれることになっている。

 この年、国王に選出されたオーベロン・クウィンは 〈笑い〉 をもってこの倦怠に対峙しようと考える道化者で、中世社会の復活を提唱、ロンドンの各自治区に城壁を建設し、独自の軍隊をつくるよう布告を出す。人々はこの大掛かりな冗談に興じるが、しかしそこへ本物の狂人が登場する。ノッティング・ヒルの市長アダム・ウェインである。彼は国王の布告を文字通りに受け止め、武装兵を率いて他の地区との戦闘を開始する。やがてその狂気はロンドン中に伝染し、人々は剣や矛槍で中世さながらの血みどろの戦いをくりひろげることになる。逆立ちした世界でのノンセンスと紙一重の狂気をえがいて、なんとも奇妙なテイストのまさにチェスタトンしか書けない小説だ。 (2001.8.5)


吉田健一 『謎の怪物・謎の動物』 新潮社 (絶版)

 宰相吉田茂の息子で、英文学者で作家で翻訳家の 〈乞食王子〉 吉田健一にこんな愉快な本があるのをご存知だろうか。ネス湖の怪物や大海蛇、シベリアのマンモス、怪鳥モア、謎の類人猿、海の墓場サルガッソーなど、世界各地の謎の生物にまつわる挿話を紹介した本だ。内容的には、UMA (未確認生物) 学の泰斗ユーヴェルマンスなど、あちらの文献のほとんどリライトに近いものらしいが、そこはそれ、吉田健一ならではの独特の語り口がここでも堪能できる。刊行当時、三島由紀夫が 「ティーターン的大業」 と、これまた大仰な賛辞を寄せた好読物である。なお、上のタイトルは昭和39年に新潮社から出た初版のもの。図書出版社 『未知の世界』 (昭和50) の版もあり、集英社 〈吉田健一著作集14〉 (昭和54) には 『怪物』 の題で収録されている。のちに 『私の古生物誌』 という地味なタイトルでちくま文庫にも入ったが、現在は品切のようだ。(2001.7.20)


ユルギス・バルトルシャイティス 『アベラシオン』 国書刊行会

 澁澤龍彦が盛んに援用・引用したことでも知られるリトアニア出身の美術史家バルトルシャイティスの著作は、人間の想像力がいかに突飛なものを生み出すか、しかしそれは突飛ではあるが、時代や場所を越えた普遍性をもっている、ということを恐るべき博覧強記と夥しい図版資料によって証明しようとしている。

 この本では、たとえば18世紀の 「動物観相学」 をとりあげている。これは要するに羊の顔に似ている人は羊のような性格である、といった身も蓋もない理論なのだが、顔面の傾斜角度だの、人類学的考察だの、如何にもの学問的体裁をまとって大流行した。19世紀末のホームズ譚にも観相学的思考法が入り込んでいることはつとに有名だ。次に 「石の絵」 というエッセイでは、鉱物を割ると、そこに現れた模様が風景や人物、建物に見えるという現象、「ゴシック建築とロマン」 では、ゴシック建築とは古代のヨーロッパを覆っていた森を建築化して再現しようとしたものである、という説を紹介している。

 これも邦訳のある 『イシス探求』 では、中国人エジプト起源説 (漢字は神聖文字が変化したもの。パゴダは中国式のピラミッド) や、パリはエジプトのイシス女神が建設した都市である、といった話が満載の本だ。いずれも眉唾ものの奇説のたぐいだが、「まともな」 学者が相手にしない題材をあえて取りあげ続けたバルトルシャイティスの興味は、人間がなぜそんなことを空想してしまうのか、その想像力のあり方、はたらき方のほうにある。(2001.7.14)


グスタフ・ルネ・ホッケ 『迷宮としての世界』 美術出版社 【amazon】

 もともと美術史の用語だった 〈マニエリスム〉 を、文化全般に拡大して多方面に強烈な衝撃をあたえ、様々な論議を呼んだ名著。歴史の中である一定の時期にだけ、極度に人工的で、逸脱的で、知的で、技巧的で、謎や奇想に満ちた表現形式 (すなわちマニエリスム) が集中して出現するのは何故か、ということを、この大著の中でホッケは執拗に追跡していく。詳しくは実物にあたってもらうとして、大雑把に言えば、ある種の世界崩壊の危機が社会を襲ったとき、それがマニエリスム的な表現となって作品に投影されるのだとホッケは言う。彼の考えでは、西欧ではいままで5つの重要なマニエリスム時代があり、その最新の期間が、1880〜1950年ということになる。

 いったい何が言いたいかといえば、探偵小説をマニエリスムの一形式としてとらえれば、かなり説得力のある議論ができるのではないか、ということだ。笠井潔 「大量死理論」 に対して、大戦争が起きれば必ず探偵小説が生まれるのか、というツッコミを入れていた人がいたが、ローマ劫掠や30年戦争など、当時の 〈世界〉 に終末の予感を与えたような深刻な事件のあとには、やはりその時代なりのマニエリスム芸術が出現している。探偵小説をその19-20世紀版と考えれば、より大きなスケールの、実りある議論が出来そうだ。高山宏 『奇想天外・英文学講義』(講談社メチエ) では、そうした文脈で探偵小説が取りあげられている。

 ちなみに、本書の姉妹篇にあたる 『文学におけるマニエリスム』 (現代思潮社) には、一箇所だけ探偵小説に触れた一節がある。いわく、「マニエリストたちのお気に召す 〈手に汗を握らせるような〉 小説はといえば……その謎遊び、同一性の取り違え、人工性、非現実性ゆえに、探偵小説だけである」。決して読みやすくはない、歯ごたえのある本だが、すこしでも探偵小説を真面目に考えようとする人には、多くのヒントを与えてくれるはずだ。 (2001.7.6)


D・H・ローレンス 『アメリカ古典文学研究』 講談社文芸文庫 【amazon】

 『チャタレイ夫人の恋人』 のローレンスである。しかもタイトルが 「アメリカ古典文学研究」。ミステリ・ファンや怪奇幻想小説ファンのなかには、それだけで敬遠される方も多いことだろう。しかしこれは勿論、教科書的な無味乾燥な文学史などではない。とくにエドガー・アラン・ポーを取り上げた章だけでも目を通してみてほしい。ここには、ポーの探偵小説や怪奇小説に秘められた恐ろしい愛の物語の核心に迫る鋭い洞察がある。「なぜ、人はそれぞれ自分の愛するものを殺すのだろうか。その理由は簡単だ。生きているものを知るということは、すなわちそれを殺すことなのだ」 相手を知り尽くそうとする欲望、それは吸血鬼の愛だとローレンスは云う。対象を分析し、一片の謎も残らぬよう解明するためには、その相手を殺さねばならない。かくしてポーの小説のヒロインたちは、主人公に愛されるが故に次々に恐ろしい死を遂げていく。これは試験用のお勉強にはまったく役に立たないが、すでに定まって動かないと思われがちな古典的作品のもう一つの顔を、強力な文学的想像力によって浮かび上がらせた異貌の文学史である。(2001.6)


ヴォルテール 『カンディード』 岩波文庫 【amazon】

 ヴォルテールといえば、18世紀フランス啓蒙思想の大哲学者、ということで教科書にも出ていると思うが、これは大変ヘンテコな小説である。ウェストファリアのとある城館に住む天真爛漫な青年カンディードは、城主の娘と接吻したところを見つかり、放逐されてしまう。疑うことを知らない彼はたちまち軍隊に売り飛ばされ、軍規違反で4000回の鞭打ち刑にあい、ようやく戦場から脱走したかと思うと海上で大嵐にあい、たどりついたリスボンではいきなり大地震に遭遇、ここで再会を果たした姫君は、先の戦争で敵兵に陵辱され、半殺しの目にあったあと、流れて流れて、いまはユダヤ人と宗教裁判所長の共有の愛人になっていた。

 その後も二人の上には、ありとあらゆる災厄が次から次へと降りかかる。これはほとんどマルキ・ド・サドの悲惨小説の世界なのである。しかしヴォルテールは、この無邪気な青年の残酷物語を実にアッケラカンと不思議な明るさで描いていく。最後にカンディードは姫と結婚することになるのだが、すでに彼女は多くの苦難のため醜く口うるさい女になりはてている。世界をへめぐった冒険の挙句に得たものは小さな地所だけ。そして物語は、「何はともあれ、我々は自分の畑を耕さねばならない」 というせりふで唐突に終ってしまうのである。(2001.6.23)


アミン・マアルーフ 『アラブが見た十字軍』 ちくま学芸文庫 【amazon】

 西欧社会の聖地奪回の 「聖戦」 十字軍の遠征を、奪回された側のアラブ諸国の視点から検証した本。この遠征がいかに野蛮で利己的で残虐なものであったかが克明にあばかれていく。当時、アラブのイスラム世界は、ヨーロッパよりもはるかに高度な科学と技術をもった文明社会であった。そこへキリスト教徒の 「蛮族」 が突然襲いかかってきたのである。その当初には、たしかにキリスト教の聖地エルサレムを 「異教徒」 の手から取り返したい、という宗教的な情熱もあったのだが (それだってアラブ側から見たらずいぶん身勝手な話だ)、たちまち運動は諸国の政争の具となり、侵略戦争へと転じてしまう。欲望に眼の色変えて押し寄せた戦士たちは、途中の町々を襲っては、殺戮・略奪・強姦・放火を繰り返す。アラブ人からみたら、まさに彼らは 「白い悪魔」 だった。それを許してしまった原因は、部族主義によるアラブ世界の内紛である。

 どんな歴史も結局は、ある特定の視点から語られたものであり、だれにとっても 「正しい歴史」 なんてものはありえない、というところから歴史教育は始められるべきではないのか。昨今の教科書をめぐる騒ぎを見ていると、とりわけそう思う。(いまのところ)最後の世界戦争の勝ち組の視点からみた (彼らに都合のいい) 「歴史」 を鵜呑みにすることはないが、大東亜戦争にはアジア解放の理想があった、などという 「大義」 が、戦場となった国からはどう見えるか、よく考えてみるといい。この本はもともとリブロポートの 〈冒険の世界史〉 シリーズの1冊だった。このシリーズには他にも 『レオ・アフリカヌスの生涯』 『暗殺者教団』 『イギリス海賊史』 など、面白い本が沢山入っていたのだが、リブロポートの消滅と共に姿を消してしまった。 (2001.6.16)
※追記。この年の9.11以後、この本を再び思い返すことになる。


F・L・アレン 『オンリー・イエスタデイ』 ちくま学芸文庫 【amazon】

 1920年代のアメリカの世相や事件をふりかえった、いまさら紹介するまでもない古典的名著だが、大戦間のアメリカ・ミステリを読む上で、いまでも最上のサイド・リーダーだと思うので、あらためてお勧めしておく。麻雀やクロスワードパズルが全米で大流行したり、ツタンカーメン王墓発見のニュースによって空前のエジプト・ブームが巻き起こったり (『カブト虫殺人事件』 も 『エジプト十字架の謎』 もこれと無縁ではない)、「Yes, We have no banana .. . 」 という妙な歌が流行ったり、といった時代の空気を伝える情報がいっぱい詰まっている。30年代を扱った続篇 『シンス・イエスタデイ』 (ちくま学芸文庫) と、1919年から41年にアメリカで起きたさまざまな事件を1年1件ずつ取り上げたノンフィクション・アンソロジー 『アスピリン・エイジ』 (ハヤカワ文庫NF・絶版) も要チェックだ。


エリザベス・シューエル 『ノンセンスの領域』 河出書房新社

 ルイス・キャロルやエドワード・リアのノンセンス作品を取り上げながらシューエルは、ノンセンスとは厳密な論理が支配する一個のシステムであり、ゲームであるという。その世界では、人間もなにもかも、すべて単なる 「もの」、もっと言えば生命のない 「もの」、死物となり、一個の記号と化す。言葉遊びの法則が内容を決定する。ルイス・キャロルのノンセンス詩 『スナーク狩り』 では、怪物探しの探検に出かける乗組員は、ベイカー、ベルマンなど、なによりまずBで始まる職業の者でなくてはならない。Aで始まる町でAで始まる名前の人物が殺される 『ABC殺人事件』 や、童謡の文句どおりに厳密な数学的正確さで 〈ゼロ〉 に向かって登場人物が殺害されていく 『そして誰もいなくなった』 を思い出さないだろうか。 (2001.5.20)
※クイーン (「気違いぞろいのお茶の会の冒険」) やカー (『帽子収集狂事件』) の 「アリス」 好きには、「微笑ましい稚気」 なんかじゃなく、もっと本質的なものが潜んでいるはず。とくにクイーンの言葉遊び (アナグラムやアクロスティックなど) への執着は、キャロルのノンセンスを強く想起させる。