中条流 | 開祖 中条兵庫頭(ひょうごのかみ)長秀 成立 室町時代 歴史・概要 神道流、陰流と並んで多くの刀術の祖流となった流派です。伊東一刀斎が中条流の鐘(かね)捲(まき)自斎に師事したことがあるため、一刀流はこの流派の系列とされています。 中条家には代々、中条家刀術とでもいえるようなものが伝承されてきましたが、それを体系化したのが流祖の兵庫頭長秀です。 中条流の名を高めたのは、何といっても盲目にして小太刀の達人富(と)田(だ)勢源、勢源の義理の甥の富田越後守重政、勢源の弟子の鐘巻自斎です。さらに別格で、武蔵の引き立て役となってしまった佐々木小次郎がいます。 中条流は、戦国期には比較的広く普及していたので、江戸初期までなら全国の剣客が名乗っていて不思議ではありません。 特徴 現在、中条流がどのような技法を持っていたのかはあまり残っていません。典型的な戦国期以前の古流として、単純ではありますが激しい剣であり、また死を恐れぬ精神面を磨くことで、高い水準を保っていたと想像されます。 また、特に富(と)田(だ)勢源の「富(と)田(だ)流」は小太刀の扱いが精妙でした。 |
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中条 兵庫頭 入道 長秀 |
中条流 : 中条 兵庫頭入道 長秀 ( ちゅうじょう
ひょうごのかしらにゅうどう ながひで ) :
文和年間 正式には中条流平法。 中条長秀は従五位下中条出羽守景長の次男。 建武の頃、兄の出羽守時長が奥州に領土を得た為、父の後を継ぎ三河挙母城主となります。 相馬慈恩に念流を学んで一流を興したとされますが、年代的にみると、慈恩の師の寿福寺神僧栄裕から学んだ可能性あり。 |
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富田勢源 | ||
富田勢源(とだ せいげん) 1523〜 ? 越前の中条流剣豪。眼疾のため家督を弟の景政に譲り、富田流を創始した小太刀の名人。美濃に立ち寄った際、当時の国主斎藤義龍の剣術師範・梅津某との立ち会いが知られている。 |
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富田勢源 (とだ・せいげん) (1524?--?) 目を病んでいながら、小太刀の名人であり、その流派を人に「富田流」と呼ばれたほどの名手です。「名人越後」こと富田越後守重政は、勢源の弟の娘婿、つまり義理の甥にあたります。 勢源が美濃に逗留していたときです。武芸好みの領主、斎藤義龍(よしたつ)が世話をしていた梅津某という兵法者が、勢源に試合を望みましたが、勢源は「私の刀法は人にお見せするようなものではありません。立ってのお望みであれば、越後に甥の重政がおりますから、そちらをお訪ねなさい」と相手にしません。これを聞いて梅津が「勢源という奴、越前では多少有名だが、所詮井の中の蛙、わしと闘うのは恐いとみえる。わしは、試合とならばたとえ領主であっても容赦しないからな」と言います。これが義龍の耳に入り、立腹した彼は早速に勢源に使いをだし、梅津と立ち会うよう命じました。「御領主の命とあれば是非もなし」と、勢源は梅津と立ち会うことにしました。 立ち会いの当日、薪を持って立ち会いの場に臨んだ勢源に梅津は憤慨し、真剣での立ち会いを望みますが、勢源は「お主が真剣がよければそうするがよい。わしはこの薪でよい」というので、仕方なく梅津も木刀を構えます。大兵の梅津に対して、小柄で目の悪い老人の勢源はいかにも哀れでした。 ところがです。試合は、勢源の薪のただ一打ちで梅津は額から血を流して倒れます。屈せず脇差を抜く梅津に対して勢源はもう一打ち。これで梅津の命は絶たれます。あまりの精妙な技に感じ入り、義龍はしばらく滞在するよういいますが、勢源はそのまま立ち去りました。 |
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高弟・門人と伝承系統 鐘巻自斎(中条流) 川崎鑰之助(東軍流) 長谷川宗喜(中条流) 山崎左近将監(中条流) |
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富田流 | 富田 九郎左衛門 | 富田流 : 富田 九郎右衛門 長家 ( とみた
くろうえもん ながいえ ) : 永禄年間 多数の文献で富田長家は九郎右衛門といわれるが、正しくは九郎左衛門。 中条流を大橋勘解由左衛門から継いだが、この後中条流は富田家が相伝していったためか、富田流を名乗ることに。 長家から数えて三代目の治部左衛門景政が前田利家に仕え、その後富田流は前田家の御家流となる。 名人越後と呼ばれた富田越後守重政は、山崎流山崎左近将監景成の弟で、越中末森合戦での武功を富田景政に認められ、富田家に婿入りして富田流を継いだ人。 |
富田重政 | ||
富田越後守重政 (とだ・えちぜんのかみ・しげまさ)
(1564--1625) 加賀・前田家の重臣として1万3千石以上の扶持を得て、俗に「名人越後」と呼ばれた重政は、勢源の甥に当たります。 残念ながら、彼が「名人」と呼ばれるに至った試合などの記録は残っていません。しかし、その片鱗を示すような、次のような逸話があります。 ある時、重政が小姓に髭をそらせていました。小姓は、「いくら殿が名人だったとしても、このときに首を掻き切ったらひとたまりもないだろう」と考えました。すると重政が不意に「出来もせぬのに、物騒なことを考えるのではない」と言ったので、小姓は考えを読まれたことに驚き、恐れ入ったそうです。 |
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富田重政(とだ しげまさ) 1554〜1625 ☆ 前田利家家臣。富田流剣術の達人で「名人越後」の異名を持つ加賀藩の剣術指南役。利家・利長・利常三代に仕え、武将としても優れた人物で、武州八王子城攻めや大坂冬の陣でも活躍。剣豪武将としては破格の13500石に封ぜられた。 |
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外他流 | 鐘巻自斎 | 鐘巻自斎(かねまき じさい) : 富田・中条流から外他流【とだりゅう】(弟が戸田流との説あり)を創始して鐘巻流と呼ばれたらしい。 生没年、生国不詳。 「富田三家」と言われる達人。 小田原の北条氏に剣法指南として仕えた。 富田勢源に富田流に学んだが、小太刀よりも中太刀(二尺一寸から二尺五寸までの太刀)の利点に気付き、鐘巻流(外他流:とだりゅう)を開いた。 |
戸田流 | 戸田 清玄 吉方 | 戸田流 : 戸田 清玄 吉方 ( とだ せいげん
よしかた ) : 天正年間 戸田清玄の正体はほとんど不明。 富田流(中条流)の富田勢源と同一人物であるとする説や、富田勢源の弟子とする説、上泉伊勢守の弟子とする説、鐘巻自斎の弟で、自斎が外田流(外他流)を名乗ったのに対し、弟が戸田流を名乗ったとする説もある。 |
一刀流 | 歴史・概要 伊東一刀斎が起こした流派です。また、一刀斎の弟子である神子上(みこがみ)典膳は、小野次郎右衛門と名を変え、将軍家指南役となりました。 一刀流にはさまざまな分派がありますが、特に中西派では、直心影流・長沼国郷によって整理された竹刀、面小手を用いた試合稽古をさらに発展させ、胴を考案して、韜袍(とうほう)剣術を完成させました。中西派では、一刀流にそれまであった刃引きの真剣による型稽古を止め、韜袍剣術に重きを置くようになったのです。これをもって中西道場は非常な隆盛を見せました。 一刀流は全国に広く広まっています。 特徴 一刀流の極意は「一刀即万刀、万刀即一刀」であり、「一に始まり、一に帰す」とも言われます。これを技の面から表すと、一刀流は切落に始まり、切落に終わると言えます。 切落とは、相手の剣を受けもかわしもせず、相手の動きに合わせて、そのまま切り落として勝ちを得る剣のことです。こちらの気力に相手が圧倒され、誘われて正面から打って出たところをこちらから切って落とすのが信条です。 切落突という型はこれをさらに発展させ、相手が引いて逃げようとするとき、咽喉(のど)、あるいは鳩尾(みぞおち)を突いて進み出ます。すると、切り落とした瞬間に切り、突くことが同時に起こります。 このような技を行うため、自らの心にある我意我欲我執恐怖を「切り落と」します。すなわち切落とは、単なる技ではなく、心も一体となった一刀流の極意なのです。 |
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伊藤 一刀斎 景久 伊東 一刀斎 景久 |
伊藤 一刀斎 景久 (いとう いっとうさい かげひさ
) 元亀・天正年間頃 : 一刀流開祖 : 鐘巻自斎の弟子。 伊藤一刀斎は、鐘巻自斎に中条流を学び、一文字の刀を携えて全国を修行し、試合すること三十三回、一度も敗れることがなく、後に一刀流を開く。 生没年は、諸説あって定かではない(一説に1560〜1653)。 生国不詳(伊豆大島出身説あり)。 伝記、小説なども多数でている。 門下からは、小野忠明(小野派)、古藤田俊直(古藤田派)、伊藤忠一(水戸派)、伊藤典膳(忠也派)、梶正直(梶派)、間宮久也(間宮派)など優れた剣客が多数輩出した。 新刀流、新影流とならんで、日本剣術の源流の一つ。 彼の一刀流という流派がその後の日本剣法史に与えた影響は大きい。 |
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一刀流の開祖でありながら、生没年、出生地、さらに身分までもが不祥の謎に包まれた剣豪です。 鐘捲流(中条流)の鐘捲(かねまき)自斎に師事しました。自斎門において、次のような逸話が伝えられています。当時は弥五郎といった一刀斎が、入門三年ほどで、「兵法の妙技を悟った」と自斎に語り、さらに「兵法の妙は自分の身にあるので、師から伝えられるものでもなければ、長くやっているからというものでもない」といいました。自斎は生意気だと思い、弥五郎と立ち会ったのですが、なんと、二度ならず三度も自斎が敗れてしまいました。弥五郎の「人間、眠っていても頭がかゆいのに足を掻いたりはしないものだ」という言葉を聞き、自斎は早速に秘伝を伝えたといいます。 その後伊豆三島に流れつき、三島明神の神官から「甕(かめ)割り」と言う刀を贈られました。 伊豆から小田原に出た弥五郎は、後に古藤田流を開く古藤田勘解由左衛門俊直 (ことうだ・かげゆざえもん・としなお)に出会い、彼を弟子にしました。俊直の紹介で、北条家の家臣に剣を教え、しばらく小田原に逗留しました。このとき、明の刀術家と対決し、木切れ一本で唐剣をあしらい、武名を高めました。 また、女にだまされてしたたかに酔って、刀を奪われた上で賊に襲われたこともありました。この危機の際に悟ったのが「払捨刀(ふっしゃとう)」です。このように、むやみに人間臭い逸話が残っているのが、一刀斎の面白いところです。 その後、弥五郎は一刀斎と名乗り、諸国を放浪し、各地で弟子を取って教えました。放浪の際に弟子入りし、ついて歩いたのが、小野善鬼と神子上典膳(みこがみ・てんぜん)です。彼ら二人が、一刀流の嫡伝を表す「甕割り」を賭け、下総の小金原で決闘しました。これが世に言う「小金原の決闘」で、結局典膳が勝ち、一刀斎は典膳に甕割りを与えた後、忽然と姿を消しました。 |
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伊藤一刀齋の出生、素姓は謎に包まれていて、はっきりしない。伊豆伊東の生まれとか、江川堅田の生まれとか言われる。剣術は独学で覚えたか、或いは戸田流の鐘捲自斎について学んだと言われる。 生涯多くの武芸者と仕合をして一度も敗れたことはないと言われた。鎌倉八幡宮に参篭して、背後に 迫って来る影を無意識のうちに斬って「夢想剣」の極意を得たと言う伝説は講談でよくありますが、実際のことははっきり分からない。確実に分かるの一刀齋は現代剣道にも影響を及ぶ一刀流の技を確立し、その最も優れた弟子の小野忠明をのちに将軍となった徳川家に仕えさせて、一刀流の基盤を築いたことだ。 |
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